2009年04月01日

象山神社

■街角の郷土史 24
 松代城址や真田宝物館といった、松代観光のメイン施設を離れて、象山の麓に象山神社や象山記念館があります。近くには佐久間象山と親交のあった山寺常山邸もあって、城下町らしい落ち着いた町並みが今に残されています。
 象山神社と象山記念館、片や戦前、片や戦後と時代は異なりますが、いずれも昭和にできた施設です。
 幕末維新に活躍した志士や日清・日露戦争の英雄が神となって祭られている神社はね松陰神社、東郷神社、乃木神社などいくつかあって象山神社が特別な存在というわけではありません。
 象山の弟子である吉田松陰を祭った松陰神社は山口県萩市にあって、境内には松陰の私塾松下村塾も保存されています。もう何十年も前に訪れた時の記憶で曖昧ですが、故佐藤栄作の揮毫した「明治維新胎動の地」のばかでかい石碑もありました。
 象山神社のひっそりとした佇まいに比べたら破格の扱いではないかと、信州人は思うのですが、これはそのまま明治維新後の吉田松陰と佐久間象山の評価の差をあらわしたものなのてしょう。
 佐久間家は、象山暗殺後間髪を入れず知行並びに屋敷地を奪われ、お家は断絶となっています。象山の体の刀傷が背中にあって、敵に背中を見せるとは武士にあるまじき行為というのがその理由といわれていますが、松代藩内の派閥抗争の果ての処置だったのではないかと思われます。
 象山神社設立の趣旨をそのホームページから拾ってみますと「大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社創建の計画が進められ、 地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、 昭和十三年十一月三日県社として創建された。」とあり、幅広い人々の協力と浄罪によって設立されたことがうたわれています。
 こういう方法というのは、時代を変えると例えば穂高の碌山美術館なども信濃教育会と全県の学校関係者らの協力により設立されています。
 象山神社の場合は昭和13年という微妙な時代背景を考えると、多分に国家主義的な匂いが感じられるのですが、長野県内と県外の佐久間象山の評価の違いというのはどうもこの辺から曲げられてきているように思われます。

象山神社



Posted by 南宜堂 at 17:54│Comments(7)

この記事へのコメント

こんにちは。

 佐久間象山暗殺については、判らないことが多いですよね。元治元年には、新選組が尊攘派浪士を襲撃した池田屋事件が起こり、その恨みをかった象山の身辺もかなり危険になっていたはずなのに、何故、警護も連れずに、しかも馬に乗るなどして帰宅しようとしていたのか?不思議です。
 しかも、象山襲撃を命じたのは、かつて象山の弟子だった吉田松陰の門下の久坂玄瑞だったという説もあり、これが事実であれば、皮肉な運命ですね。
 明治政府になる時に、松代藩が象山を庇い続ける訳にはいかなかったのでしょうが、それにしても、考えようによっては、時代に利用された、気の毒な生涯だったというような気もします。
 
Posted by ちよみ at 2009年04月01日 18:29
ちよみさま
佐久間象山のことを勉強しはじめているところです。ようやく生地である象山神社にたどり着いてところで、これから江戸、京都と勉強を進めようと思っています。暗殺については直接の下手人は川上彦斎であったようですが黒幕は誰なのか。品川弥二郎ともいわれていますが、どうなのでしょう。
Posted by 南宜堂 at 2009年04月01日 21:11
こんばんは。

 お返事ありがとうございます。
 おっしゃるように、象山暗殺に直接手を下したのは、人斬り彦斎だといわれていますね。わたしもそう聞いています。
 でも、黒幕については、やはり諸説あるようですが、品川弥二郎という説もあるのですか。そうだとしたら、その頃、品川は、まだ若かった訳ですから、そういう強攻策に出たとしても、不思議ではありませんね。
 象山に関する南宜堂さまの記事、楽しみにしております。また色々とお教えください。
Posted by ちよみちよみ at 2009年04月01日 23:47
ちよみさま
象山については前にも書きましたように因縁を感じております。
昨年、知り合いの作家星亮一氏の戊辰戦争研究会に誘われて入会しました。ここでは、幕末維新に活躍した人物名をハンドルネームに使うことになっています。
私は星さんの発案で、幕末の信州の有名人佐久間象山を名乗ることになりました。
名前を借りている象山氏のことを知らなければ失礼に当たるとにわか勉強をはじめた次第です。
ちよみさまのブログ拝見しました。該博な知識と表現力に感服した次第です。願わくば、我々老人にも読みやすいように文字の大きさ、書体、背景の色を工夫していただけたらと思います。老眼には辛いです。勝手を申し上げてすみません。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2009年04月02日 10:09
こんにちは。

 ハンドルネームが、佐久間象山というのは、本当に運命的ですね。信州といえば、やはり、一番先に思い出す幕末の偉人といえば、象山ですから・・・。
 わたしのブログをお読み頂き、ありがとうございます。これまでも、小説ブログを書いて来ましたが、今度は時代物にチャレンジしております。
 ところで、ブログの書き方なのですが、ご意見を賜わりありがとうございます。ただ、このブログは、わたしがまだ、パソコン初心者なものですから、お隣の若い娘さんが、色々とリサーチの上作ってくれたものなのです。タイトル文字や文章の文字、テンプレート、またブログの説明も、彼女が選び、打ってくれたものでして、現在も、何か判らないことがありますと、彼女の知恵を借りておりますので、しばらくは、このままで続けて行きたいと思っております。
 読みにくい点が多々あろうとは思いますが、ご容赦ください。
 これは、蛇足になるやもしれませんが、ブログは、別の場面を開いて、背景なしに読むことも出来ますので、もし、そちらのパソコンでその対処が出来るようでしたら、それを試してみて下さい。そちらの画面の方が、読みやすいかもしれません。
 よろしくお願いいたします。
Posted by ちよみちよみ at 2009年04月02日 13:54
又来ました(笑)。
私が初めて佐久間象山を知ったのは小学生の遠足で佐久間象山が電報の実験を初めて行った楼を見学に行った時です。
当時はどんな人か知らず、南宜堂さんが書いてた象山がじかに祭りの幟に読みがな入れたという新聞記事を見たのが二回目。
長野県民ながら 正直どんな事したひとかよくわからなかったけど 去年マイブログのアクセスの下心(^_^;)で 長野県にまつわる人が出てくるSFを書こうかと思いつきました。
佐久間象山を取り上げようかと 図書館で関係本よみきれないからパラパラ見たけど 今で言うマルチ学者で女好き(唯一成人した息子さんも食中毒で年若くして逝去してしまい佐久間象山の血が絶えてしまったのが残念)な面もあって意外でした。
ちなみさんもかかれていた象山暗殺の人斬りに「今まで切ってたのは野菜みたいに楽に斬れたが 佐久間象山を斬る時はそうじゃなかった。何と言うのか 言い知れぬ気迫を感じた。」と言って以来 人斬りを止めたと 名前忘れたけど某作家の小説にあって インパクト有りました。
Posted by ブランフェムト at 2009年04月06日 11:47
ブランフェムト さま
佐久間象山は幕末維新期の信州人ではいちばんの有名人ですね。具体的に何かをしたかというと、いわゆる志士ではないので、具体的にどんなところが偉かったのかよくわからないですね。
結構嫌っている人もいるようで、ドラマなどで見る象山は変わり者として描かれていて、信州人としては複雑な思いです。
Posted by 南宜堂 at 2009年04月06日 18:30

 
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