2007年06月25日

落語と映画

 落語を生で聞く機会というのは地方ではなかなかありません。立川一門の志の輔さんが時々長野で独演会をやっているようですが、残念ながら未だ聞きに行ってはおりません。
 立川談志が、落語は説明になってしまってはいけないということを言っておりますが、講談なんかとは違って会話で成り立っているのが落語ですから、会話だけでお噺の背景まで浮かび上がってくるのが話芸というものでしょう。
 映画についても同じ事がいえそうです。ナレーションのやたらに多い映画や、説明的な映像をつなぎあわせたような映画は、見ていて退屈してしまいます。
 最近、NHKのBSでずっとやっていました山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズ、解説の山本晋也は映画監督らしく、何気ないシーンや渥美清のせりふやしぐさに、登場人物の感情表現を読みとっていました。あの解説により山田洋次の才能と「男はつらいよ」の映画としての完成度の高さを改めて認識した次第です。

 さて、連日取り上げている映画「転校生」ですが、大林監督はカメラを通してみた長野の町に何を表現させようとしたのでしょうか。まだ見ておりませんので何も申せませんが、映画を見る時のひとつの楽しみにはなります。
 私は町を歩く時、あまり人目につかない小路や路地を好んで歩くと「休日の町歩き」に書きましたが、そんな私の目は裏通りの路地に何を見ているのか、今まであまり意識して考えても見なかったのですが、裏通りを歩く時の居心地の良さは懐かしさなのかなとも思います。私たちが原風景として持っているものをそこに発見して、安堵するのかなとも思います。
 ところで、「転校生」の原作は山中恒という児童文学者の「おれがあいつであいつがおれで」という小説だったと思います。もう老人といってもいいものが、この思春期の物語をどんな気持ちで見たらいいのか。まあ監督もすでに老人なのですが。
落語と映画



Posted by 南宜堂 at 23:24│Comments(0)

 
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