2009年04月05日

佐久間象山生家

■街角の郷土史 28
 象山神社に隣接して、佐久間象山生家の跡があります。残されているのは屋敷跡だけで、敷地内にポツンと金網の張った井戸があって、これだけが当時のままであると説明されています。
 佐久間象山は、文化八年(一八一一)ここで生まれています。五両五人扶持の下級武士の家といわれていますが、どの程度の収入なのか見当がつきません。
 いまその生家のあたりに立って見回しますと、まず目につくのは背後に屏風のように立ちふさがる山です。これが雅号のいわれとなった象山なのですが、標高は高くないもののこの辺に住むものにはうっとうしい存在には違いありません。
 象山もおそらくはこの屏風を朝夕に眺めながら育ってきたものでしょう。この山が彼に井の中の蛙の意識を植え付けたのではないかと想像します。
 しかし、この屏風はなだらかな小山ですから頂上に登るのもそれほど苦労を擁するものではありません。頂上からはおそらく善光寺平が一望でき、この見渡す限りの場所が松代藩の領地になるわけですが、若き日の象山はここから大空へそしてまだ見ぬ世界へと飛翔することを夢見たのでしょう。
 象山はここで二三歳まで暮らし、江戸に遊学に出ます。
 常々不思議に思っていたことなのですが、彼はこのあと江戸と信州松代の間を行き来するのですが、彼の興味の対象、学識の深さを考えてみて、活動の範囲が非常に狭いのです。江戸のほかはせいぜいが信州の松代領内、そして晩年の京都だけなのです。
 象山の薫陶を受けた勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが全国を股にかけて遊歴し、時には海外にまで足を伸ばしているというのに、この洋学者はなぜその活動範囲が狭いのか。机上の学問だけですべてがわかってしまったからなのか、あるいは紙の上に書かれているものだけが彼の興味の対象であり、実物には興味は無かったでしょうか。そんな象山が吉田松陰にアメリカへの密航を勧めているというのも解せない話です。
 もっとも象山は松陰の密航事件に連座して、七年もの長い間松代に蟄居の身であったのですから、どこにも行けなかったのだという理由はあるのかもしれません。
 もうひとつ不思議なのは、象山は終生松代藩士であることにこだわり続けたということです。象山が暗殺されたとき、彼の懐中からは「真田信濃守家来佐久間修理」という名札が出てきたのだそうです。幕末の松代藩は家臣たちが二派に別れて争っていましたが、象山もまたいつでもこの争いの渦中にいて、さまざまな策謀を巡らしていたようです。
 広く世界に目を開くことをすすめながら、自らは信州松代藩の藩士であることにこだわり続ける。そんな点が勝海舟をして「あれはあれだけの人物であった」と言わしめる根拠なのかもしれません。
 この象山の持つ二面性「学識の割には視野が狭い」というのは、彼の生涯をたどる中で繰り返し現れる矛盾なのかも知れません。
佐久間象山生家



Posted by 南宜堂 at 18:20│Comments(2)

この記事へのコメント

初めまして、ブランフェムトと言います。
私も去年秋に博物館と象山神社と元住居と生家跡行きましたが 狭い気がしました。
元住居も天井低いような。
背が高かった象山にはつっかえたんじゃないかと思えました。
博物館に 松下幸之助寄贈の木彫り象山像が有ったのは意外でした。
見ましたか?。
Posted by ブランフェムト at 2009年04月05日 20:52
ブランフェムトさま
残念ながら記念館は今回は行っていません。
高義亭は象山神社の境内にありましたので入ってみました。今から見ると質素で、冬なんかは寒かったろうと思いますね。
象山はここで高杉晋作や中岡慎太郎と会ったのだと思うと不思議な思いがしました。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2009年04月05日 22:03

 
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