2009年04月06日

続 仏閣型駅舎始末記

■街角の郷土史 30
 花火まで打ち上げて完成を祝った時から四半世紀も過ぎると、仏閣型駅舎も「時代遅れの長物」だという声が聞かれるようになりました。
「長野市の玄関をかざる国鉄長野駅の駅舎は、善光寺を模したおなじみの仏堂建築である。『いかにも仏都らしい』と観光客のカメラの絶好の被写体にもなっているが、ちかごろ、鉄道関係者の間で『時代おくれの長物だ』と、とみに風当たりが強くなってきた。仏堂造が、『もっと施設をふやしたい』、『近代化したい』という要望のカベになっているのが、その理由である。(中略)いま国鉄の主要駅は、近県をみても金沢、富山、新潟、岐阜と、はやりの民衆駅でデパートと駅をかねた堂々たる近代ビルにころもがえした。むろん旅客施設もスマートにととのえられている。だから『長野駅も近代化して』という要望が各方面に強いわけだが、そのさい一番ガンになるのがこの駅舎だという。ちかくの敷地がいっぱいで、拡張の余地がとぼしい。施設をふやすには、駅舎を増築でもするのが一番いいわけだが、この仏堂造りではこわして再建でもしないかぎり手のつけようがないという。(後略)」(『信濃毎日新聞』昭和三五年五月一四日付)
 昭和三五年といえば、戦後の混乱期から抜け出して高度成長に向かおうという時代でした。古いものは捨て、新しいものを取り入れるというのは時代の風潮だったのかもしれません。この記事の中にある民衆駅というのは、地元の民間資本が出資し、商業施設を設けた駅のことで、昭和二五年の豊橋駅を皮切りに各地に作られました。駅を町の表玄関にふさわしい建物にしたいという、地域の強い願いに国鉄が応えたものだというのですが、画一的なコンクリートの箱のような駅舎が町の玄関にふさわしいという美意識はいかがなものかと今になってみれば思われます。そこには「町の規模にふさわしい駅に」という思いはあっても、「町を象徴する駅舎」にという思いはありませんでした。やがてこの発想は、昭和四〇年代の駅ビル建設ラッシュにと受け継がれていくのです。
 仏閣型の長野駅は、そんな時代の流れの中で翻弄されながらも、なんとか破壊をまぬがれました。最終的に、この駅舎に引導を渡したのは新幹線と長野オリンピックであったといえます。保存運動もあったようですが盛り上がりませんでした。オリンピックファッショともいうべき熱狂の中にあった長野にそれを望むことは無理だったのでしょうが、その根底にあったものは、町のランドマークを残すことへの市民の無関心ではなかったかと思うのは厳しすぎる感想でしょうか。



Posted by 南宜堂 at 21:07│Comments(0)

 
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