2009年04月09日

善光寺門前町(中央通り)

■街角の郷土史 32
 末広町交差点から善光寺の門前まで続く中央通りは、かつては善光寺参りの人々の参道としてにぎわってきました。明治以降は、長野の中心商店街として銀行や商店、旅館などが軒を並べる繁華街でもありました。しかし、最初から今のような街路が続いていたわけではありません。宿場のあった大門町は六メートルの道幅があったものの、他の町は道幅四メートルほどしかなく、栽松院のあたりや後町などは荷車のすれ違いもできないほどだったといいます。ここに育った古老の話によれば、商店が売り出しの幟を店先に立てると向かいの家に接するくらいの道幅だったといい、また、店の中に居ながら向かい同士で権堂に遊びに行く相談ができたということです。
 その狭かった中央通り(むかしはそういう呼び方はせず、中央道路とか単に大通りとか呼んでいたようですが)が現在の道幅になったのは、大正末期の大工事によってでした。この時の拡幅工事により、中央通りは善光寺の参道として、また県都長野のメインストリートとして大きく発展したのです。
 4月5日から善光寺の御開帳がはじまり、中央通りも久々に活気を取り戻しているようです。活気ということで思い出すのは、長野オリンピックが開かれたときですが、あの時は舗道いっぱいに人があふれ、身動きもできない状態でした。
 しかし、最近では本堂の北側に車を駐車して善光寺に参詣する人が多くなり、町は以前のような活気がなくなって、停滞ぎみです。古くからある商店が店を閉めたり、マンションや再開発ビルに姿を変えた店も一軒や二軒ではありません。それに拍車をかけるように、買物客も広い駐車場のある郊外に車を走らせるようになり、町からますます人が遠のいていくようです。
 大きなイベントがないと人が集まらない。最近の長野の中心市街地と呼ばれる地域はそんな状態になってしまったようです。
 そんな時代の流れの反動なのか、中心市街地の活性化ということが盛んにいわれるようになってきました。現にこの中央通りでも国や市の財政的な援助を受けた再開発事業がいくつも行われています。そんな工事の続く町を歩きながら思うのは、町のにぎわいとは何なのだろうということです。
 ハコモノを並べて、そこにテナントを入れてやれば人が集まってくる、それが町のにぎわいにつながるのだとはどうしても思えません。
 あまり断定的な言い方はどうかと思うのですが、商業の集積地としての町の役割はもう終わったのではないかと思うのです。「値段」「品揃え」「サービス」どれをとっても町の商店は、郊外に展開する量販店には太刀打ちできません。町の魅力とは何なのか。変貌する中心市街地を眺めながら、しばし考え込んでしまいます。


善光寺門前町(中央通り)



Posted by 南宜堂 at 11:03│Comments(0)

 
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