2009年04月11日

長野の看板建築

■街角の郷土史 33
 善光寺の表参道ともよばれる中央通りを歩くと、近代的なビルにはさまれてところどころにおもむきのある昔ながらの建物がまだ残されています。
 中央通りが大きく変貌をとげたのは、大正一三年に行われた中央通り拡幅工事の時でした。この時、以前からあった建物の多くは曵家によって後方に移動しています。これらの建物に特徴的にみられるのは塗屋造りといって柱や梁を漆喰でおおい防火の備えをしていることです。同じような造りに土蔵づくりがありますが、塗屋の方が簡便なつくりになっています。
 拡幅を機に新しく建てられた建物は洋風建築にしたものが目立ちます。時計店、洋品店といったハイカラな商品を扱う店が洋風の建物に建て替えています。これらの建物は一見すると鉄筋コンクリート造りのようにも見えますが、実際は木造で表面だけコンクリートやモルタルを塗っているだけです。当時鉄筋コンクリートの技術は輸入されたばかりで、とても一般の商店が使えるものではありませんでした。
 木造建築でありながら、表面だけ西洋風の意匠を凝らした建物、このような建物を現代の建築家たちは「看板建築」と呼んでいますが、大正から昭和にかけてブームのようにして全国でつくられたようです。長野では、中央通りの拡幅を機会に、あちらこちらに看板建築がつくられました。大門町の藤屋ホテル、深沢洋品店、中沢時計店などが当時に建てられ現在に残る長野の代表的ないわゆる看板建築といっていいでしょう。
 ちなみに長野にはじめて鉄筋コンクリートの建物が出現したのもこの時で、六十三(後の八十二)銀行の本店と信濃毎日新聞の本社が長野初の鉄筋コンクリート建築でした。銀行や新聞社でもなければ、鉄筋コンクリートの建物はつくれませんでした。看板建築のいくつかは健在であるのに、丈夫なはずの鉄筋コンクリートの建物がいずれも現存していないというのも皮肉な話です。
 長野で中央通りの拡幅工事が行われた時期は、関東では大震災後の復興の時期に重なります。東京に震災復興の仕事で出かけた長野の職人が、見よう見まねで「看板建築」の技術を学び、それを長野の中央通りの建築に応用したのではないかという想像もできます。当時の中央通りの商店主たちは、新聞社や銀行ほど大金はなかったものの、疑似洋風の意匠を凝らした建物をつくるくらいの資本力はあったのでしょう。商店主たちの「銀座にあるようなハイカラで見栄えのいいものをつくってくれ」という要求に見事こたえたのが「看板建築」なのではないでしょうか。
 現在、再開発によって盛んに建てられている中央通りのマンションや商業ビル、あの拡幅工事の時と決定的に違っているのは、この町で商売をしてきた商人たちの意思がそこに反映されていないことです。行政であったり東京のデベロッパーであったり、彼らがグランドでザインを描いた建物群には「曵家」であるとか「看板建築」であるとかいった発想の入り込む余地はなかなか見つけられません。
長野の看板建築



Posted by 南宜堂 at 06:51│Comments(0)

 
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