2007年02月19日

問7の解説

 明治19年に生まれた小林正子さんは多数いると思いますが、松井須磨子という芸名をもつ小林正子さんは一人だけです。
 松井須磨子は、埴科郡清野村(現在の長野市松代)に生まれました。16歳で上京、17歳で結婚しますが、翌年離婚。22歳で再婚するものの、翌年女優になることを決意して文芸協会演劇研究所に入所しています。文芸協会は坪内逍遙の主宰でしたが、実質的な中心人物はヨーロッパ帰りの島村抱月でした。
 明治44年5月に帝国劇場での文芸協会第一回公演「ハムレット」でオフェリア役に抜擢されました。この時、芸名を故郷松代にちなんで松井須磨子としています。続いて9月には「人形の家」のノラ役を演じ、これが大評判となり、松井須磨子はスターへの道を歩みはじめました。
 しかし、妻子ある島村抱月との恋愛が表面化し、須磨子の文芸協会での立場は微妙なものとなります。やがて文芸協会より論旨退会の処分を受け、抱月とともに芸術座を旗揚げするのです。大正3年トルストイ作、島村抱月脚色の「復活」でカチューシャ役を演じます。この劇の中で唄われた中山晋平作曲の「カチューシャの唄」は爆発的な人気をよび、松井須磨子の名は全国に知られるようになりました。
 その翌年、松井須磨子を中心とした芸術座一行は、長野市の三幸座で公演を行いました。出し物は「その前夜」「顔」「サロメ」の三本で、いずれも松井須磨子が主演をつとめました。三幸座は、善光寺の北側にあった劇場で、以前は常盤井座といっていました。この時の長野公演は、須磨子が人気絶頂の時に行われたまさに凱旋公演でした。公演の前、須磨子は単身長野を訪れています。ひいき筋への挨拶と、公演成功の根回しが来訪の主たる目的でしたが、時間をさいて清野村に住む母親の許を訪れています。母親とどんな話をしたのでしょうか、昼食を共に食べるとあたふたと帰っていったといいます。
 当時の「信濃毎日新聞」にこの帰郷の様子とその後の後援会幹部との晩餐会の模様までが細かく報告されています。しかし、故郷に凱旋した大女優を迎えるには、その記事は少し冷たいような気がします。例えば「一万円の貯金を有している須磨子が、僅かに15銭を奮発してガタ馬車で帰る。其処に彼女の面目が躍如しているではあるまいか」とか、抱月とのスキャンダルを報じた新聞記事に「まアこんな事どうして新聞社の方には知れるのでせうと顔色一つ変もせず平気で言う度肝の太さ」といった具合です。
 今になって故郷松代を中心に盛んに顕彰活動が行われていますが、時代が変わり須磨子に対する一般の評価も変わったのでしょうか。松井須磨子の何が偉大であるのかという議論は置き去りにして、人気に便乗するだけの顕彰活動というのはいかがなものかと思うのは筆者の性格がねじけているからでしょうか。
 大正7年、島村抱月は流行中のスペイン風邪にかかり急死してしまいます。翌年1月5日、松井須磨子は抱月の後を追うように縊死をとげました。翌日の「信濃毎日新聞」は、八段抜きでそのニュースを伝えています。中でも「女性としては近代劇の第一人者」という中村吉蔵の談話を紹介した大きな見出しが印象的でありました。



Posted by 南宜堂 at 23:12│Comments(0)

 
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