2009年07月12日

もうひとつの白河決戦

 幻の白河決戦は、徳川家康軍が兵を関ヶ原に向けたため、文字通り幻で終わったわけですが、戊辰戦争に際してはここで激しい戦いが行われました。
 戊辰戦争については、激しい戦いが行われた東北の地と、戦わずして次々と薩長になびいた信州各地とでは、そのとらえ方に大きな落差があるように思います。おそらくこのブログを読んでいただいている方の中にも、南宜堂が戊辰戦争研究会の会員であるということに不思議を感ずる方もおられるのではないでしょうか。
 京都を出発した征討軍は東山道軍がわが信州に進軍しています。東山道軍は江戸に入るまで、甲府で新選組の反抗にあったくらいで、信州では戦闘らしきものはありませんでした。ただし、先にも書いたことがある東山道先鋒として進軍した赤報隊が偽官軍として下諏訪で処刑されるという悲劇が起こっています。
 このように戊辰戦争を戦わずして官軍についた信州で戊辰戦争についての認識が薄いのは当然かもしれませんが、戦前の教育がこの戦争の実際を教えてこなかったというのも大きな原因であろうと思われます。
 徳川慶喜の徹底恭順と勝海舟・西郷隆盛の交渉により江戸城は開城と決まったわけですが、幕府内に徹底抗戦派がいなかったわけではありません。彼らは会津藩を頼って北に向かいました。
 こういう事態に会津藩主松平容保もなんとかしようと東北諸藩の協力を得て交渉をしたようですが、結局それは不調に終わり戦争ということになってしまいました。この辺の事情について、司馬遼太郎が戊辰戦争120年後の白河市での講演会で次のように語っています。
「革命の血祭りというのが必要なわけですね。振り上げた刃を向ける相手が、慶喜が逃げたものだから、容保に向いたわけですね。つまり、会津若松こそいい面の皮であります。会津若松というのは、容保が京都守護職に行くときにこの結果はわかっておったわけです。」
 倒幕を目指す薩長は天皇を担いで革命をしようとしているわけですから、明確に倒す相手朝敵が必要であったのです。その第一候補である徳川慶喜に逃げられてしまったものだから、仕方なく松平容保にその矛先が向かったという、「会津の悲劇というのはそういうことであって、それ以上にあんまり悲劇を考えるといいますか、悲観主義を東北人は持たない方がいいと思います。」ということを司馬遼太郎は先の講演会でも言っています。
 こういうことを白河で言うということは、司馬さんも勇気がいったろうなと思います。いまだに会津では薩摩や長州とは和解することができない、戊辰戦争の怨みを忘れることはできないという人たちが大勢おるなかで、サラリと言ってしまうのはまずいんじゃないか、講演の筆記録を読みながら私もハラハラしました。
 白河口の戦いに話を戻しますと、ここでの攻防というのは両軍とも重要視していて、死力を尽くして戦いました。というのは、白河というのは東北の入口であり、薩長軍にとってここを突破することは東北侵攻のはずみとなるのです。一方東北方もここを破られると一気に心臓部である会津に攻め込まれることになり、なんとも阻止しなければならない戦いでした。
 結果は薩長の圧倒的な火力の前に東北側は700人という多くの犠牲者を出して破れました。結局はこの後東北側はずるずると敗退を繰り返し、会津も一ヶ月の籠城戦の末に降伏するのです。
激戦の舞台となった白河小峰城、この城は戊辰戦争に際して徹底的に焼き尽くされたが、この三重櫓は平成3年に復元された。木造で内部も昔の面影を残している。
もうひとつの白河決戦



Posted by 南宜堂 at 12:01│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。