2009年07月19日

旅心定まりぬ

 元禄2年(1689)4月20日(陽暦6月7日)、芭蕉は白河の関にたどり着いています。深川の芭蕉庵を出立したのが3月27日であるから旅立ちから20日あまり、「心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ」。
 現代のように、案内板が整備されているわけでもなく、ガイドブックなどあるわけがない時代、芭蕉はどうやって白河の関を見つけたのでしょうか。西行の時代にはすでに白河の関はもう用をなさなくなっていて、廃屋になっていたようですから、元禄時代ともなると、もうその場所もわからなくなっていたのではないかと思われるのです。
 私が案内していただいた白河の関跡は、白河藩主であった松平定信が1800年に定めたところで、ここには「古関蹟碑」が立てられていました。しかし、芭蕉がここを訪れたのは、それより100年以上も前のことです。
 同行した河合曽良の日記には「関明神、関東の方に一社、奥州の方に一社、間廿間計有、両方の門前に茶や有、小坂也、これより白坂へ十町程有、古関を尋ねて白坂の町の入口より右へ切れて旗宿へ行。廿日の晩泊まる」とあります。
 奥州街道を進み、白坂より右に折れて旗宿に向かいここに泊まったわけですが、この旗宿こそ松平定信が白河の関があった場所と定めた場所でした。芭蕉が迷うことなく白河の関にたどり着けたのは、一説には同行の曽良が事前に綿密な調査をしていたからだともいわれています。
 
旅心定まりぬ



Posted by 南宜堂 at 21:37│Comments(0)

 
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