2007年08月07日

夏祭り


 最近は市民祭りということで「長野びんずる」が賑やかに行われている長野の夏祭りですが、もともとは「祇園祭」がはじまりでした。祇園祭は京都の八坂神社の祭礼ですが、京都だけではなく全国各地で祇園祭は行われています。
 別名祇園御霊会といわれているように、疫病退散を祈願し平安時代の京都ではじまったものです。昔の人は疫病も霊の祟りであると信じておりました。

 というように百科辞典的な解説をいたしましたが、要するに疫病退散の祈りがもとにあったわけです。それがだんだんに華やかになって明治から大正の頃がいちばん活気があったようです。しかし、戦争をはさんで長野の町の経済力が衰えていくのにともなって祇園祭もさびしくなっていったようです。
 そこで新たな市民祭りとして「長野びんずる」が登場するのですが、そのへんの経緯をびんずるのホームページから拾ってみました。
 「昭和34年、活気の無くなった御祭礼を盛り立てる意味で、企業や商店の広告祭が前夜祭として始まりました。商店や企業が思い思いに趣向を凝らした演し物を作り、中央通りをパレードするというものでした。その広告祭も8年間で幕を閉じ、より若者向けの祭りが登場しました。

 昭和42年、夏祭りの前夜祭として、「火と水と音楽と若者たち」が始まりました。場所を中央通りから城山公園に移し、長野市内のサークルやアマチュアバンドが出演する若者を中心とした歌と踊りの熱狂的なイベントとなりました。

 しかし、時期が梅雨と重なり、4回のうち3回が雨に降られることとなり、祭り自体も不完全燃焼に終わらざるを得ませんでした。

 昭和41年には、篠ノ井市をはじめとする1市3町3村が合併し、大長野市に生まれ変わり、 もっと全ての世代の市民が参加できる市民祭が求められるようになりました。

 そして、昭和46年、長野市のシンボルである善光寺に祀られているおびんずるさんにちなんで、長野びんずるが始まりました。」
 なるほどそういうことでしたか。しかし現在は祭りとはいいながらも「祈り」とはほど遠いものになっているようで、こわいものなしの現代人には疫病退散など必要ないのかもしれません。
 そういえば夏の風物詩である「盆踊り」ももともとは死者を迎えるためのものであったといいます。世の中明るくなりすぎてしまって、疫病も御霊も死者たちも居場所がなくなってしまったのでしょうか。いやもしかしたら現代人がそれらのものをなるべく見ないようにしようとしているだけなのかもしれません。



Posted by 南宜堂 at 21:13│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。