2007年09月09日

民の系譜の建物たち


 近代化遺産ということが最近よくいわれるようになってきました。日本が外国の文明を取り入れて近代国家に変わっていく過程でつくられた土木建築のことですが、どちらかというと江戸以前のものを大切にし、明治以降のものは顧みられることのなかった昔から考えると大きな変わりようだと思います。
 長野県で近代化遺産といわれているものの代表に、碓氷峠の鉄道遺産と開智学校があります。眼鏡橋に代表される碓氷の鉄道遺産は、明治政府が御雇い外国人の力を借りて建設したもので、直木貞次郎の言い方を借りれば、お上の系譜に属するものです。それに対して松本に現存する開智学校や佐久市の中込学校は、学校でありながら民の系譜に属するものです。明治初期の学校は官が建設したのではなく、地元の篤志家の寄付で建設されました。開智学校は松本の大工立石清重によってつくられました。立石は松本城下でも屈指の棟梁でしたが、研究心旺盛で自費で上京し、開成学校の建築様式を学び、八角の高楼をもつ開智学校の校舎を建設したのです。洋風ながらも車寄せの上の屋根は破風造りといったもので、現代の建築家は擬洋風建築と呼んでいます。
 そんな擬洋風の建築物と並んで、民の系譜の代表的なものは蔵造りやそれを簡易にした塗屋建築です。蔵造りの町というと喜多方や川越が有名ですが、長野の中央通りも蔵造りの建物は少ないものの、塗屋造りの建物は多く並んでいました。これらの建物は一見すると江戸時代の建築のようにも見えますが、実際の所は明治大正期につくられた建物がほとんどです。明治に入っても蔵造りや塗屋造りの建物が盛んにつくられていたのです。
 以前に紹介した「昭和のはじめ長野の町」という写真集を見ると、昭和初期でさえ長野の中央通りは塗屋造りの商家がずらりと並んでいたことがわかります。現代でもその原型をとどめる柏与紙店や瀧澤硝子店のような建物が並んでいたということです。そんな塗屋造りの建物に混じって一見洋風と思われる建物がいくつか見られます。これらの建物は中央通りの拡幅を機に新たに建設されたもので、現存する建物を例にとると、深澤洋品店、藤屋旅館、中澤時計店といったものです。外見こそ洋風な姿をしていますが構造的には木造の日本家屋で、現代の建築家はこんな建物を看板建築と呼んでいます。西洋建築のおもしろそうな部分を見よう見まねで模倣したもので、開智学校に代表される擬洋風建築の流れを汲むものでしょう。
 長野市の中央通りは、昭和30年代頃までは塗屋造りと看板建築という民の系譜の建物が並ぶ町だったのです。それが高度成長の時代になると、古い建物を惜しげもなく壊し、資本力のある商店主は鉄筋コンクリートのビルをつくり、そこまでできない商店は塗屋の2階部分を店の看板で覆ってしまっていかにもハイカラなムードを演出したのです。商店会も共同でアーケードをつくり、完全に建物の外観を隠してしまいました。
 町並みの美しさということがいわれるようになったのは最近のことです。小布施の町並み修景事業などが刺激になったものだと思います。長野の町はオリンピックの招致を機に、電柱をなくしたり、アーケードを取り外したりして門前町らしい町並みを取りもどす努力が行われました。しかし一方で商業地としての地盤沈下の影響からか、高層マンションやビルをつくる動きも活発になっています。
 落ち着いた町並みを残そう、門前町らしいたたずまいの町にしようという人々もいれば、商業地としての役割が低下した中央通りの土地を高層化して有効活用しようという人々もいます。これはもうその人の価値観の問題で、簡単には妥協できたり話し合いで何とかなるという問題でもなさそうです。
民の系譜の建物たち



Posted by 南宜堂 at 21:55│Comments(0)

 
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