2010年01月21日

渡辺敏の戊辰戦争 2

 司馬遼太郎は、戊辰戦争の勝敗の原因は鉄砲の差だということを言っている。もちろんこの言い方は比喩的なもので、直接に軍備の差だけのことを言っているのではないだろう。そういう科学技術を受け入れるだけの藩の許容度のことも言っているのだと思う。
 幕末の二本松藩は、渡辺敏の目にはとても攘夷を断行できるだけの軍備があるとは思えなかった。それだけではなく、目の前に新しい技術があっても、それを受け入れるだけの度量をもっていなかったと敏は思ったことだろう。
 敏は浅川の助言に従って、江戸に出て高島流の砲術を学ぶことを決意する。父母と長兄は許してくれたのだが、中兄が反対した。その言い分は、学問をつけても他藩に仕官したり、よその養子になったのでは二本松藩のためにはならないと言うのである。
「畢竟学問でも武芸でも御国の守となり君父ののために其学問も武芸も必要なので然るに学問武術が他国の用をなす様な事では寧ろ学問武芸なきしかずある 一旦事あるに当っては其学問武芸を以て父母に刃を向け君に弓を引く様な事にもならぬ限りでないのである」これが中兄の論理であった。
 結局敏はこの言に逆らえず、江戸遊学をあきらめるのである。そのうち戊辰戦争がはじまり、敏は笹川関の警備を命ぜられる。そして7月29日、二本松城は落城する。
 二本松藩は落城まで勇敢に戦った。それであるのに、戦闘にも加わらず関門の警備だけをしていた自分がいかにも情けなく、まさに慚愧に堪えずという心境で、戊辰60年を迎えてもまだ敏の心は穏やかではなかったと思う。
 しかし、あのとき自分が江戸に出て砲術を学んでいたら、あるいは藩が新しい技術に目を開いていたら、また違う現在があったのかもしれないという思いは敏の脳裏をかすめたのではないだろうか。



Posted by 南宜堂 at 23:10│Comments(2)

この記事へのコメント

拝読させて頂いております。
湧き出るが如く、ほぼ毎日、更新して
おられますね。すごいことです。

初戦の鳥羽伏見の戦いで、歴然とした鉄砲の差、
幕府側はは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑いました。
現地に立ち、慰霊の塔を目にして、その威嚇は、
ヒシと伝わってきますね。実は、私の住む岡山・倉敷に
ミニエールが民間保存されています。奇兵隊の残党が
倉敷の代官所襲撃した時の、倉敷浅尾騒動と言いますが、
物です。いつか、このミニエールを見せて頂きたいと思っています。
Posted by みちこ at 2010年01月22日 18:27
みちこさま
コメントありがとうございます。
二本松藩は最後まで西軍に抵抗した藩であったと聞いています。
それだけに戦後の藩士たちの苦難は想像を絶するものがあったようです。
渡辺敏と浅岡一の兄弟は、偶然にもともに信州に教員として招かれています。賊軍である二本松の藩士が世に出て行くためには、師範学校を出て教師になるのが僅かに残された選択肢だったのでしょう。
渡辺敏があのとき西洋砲術を学んでいたにしても戊辰戦争の帰趨には影響はなかったでしょう。しかし、彼の将来はまた違ったものになっていたのかもしれません。
Posted by 南宜堂 at 2010年01月23日 21:26
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