2007年09月11日

消えた小路の名前


 暑い日と涼しい日が交代でやってくるようなこの頃の陽気はこたえます。体力に自信のもてる日は、足の向くままで歩くのですが、どうしても狭い小路に迷い込んでしまいます。武井神社の西側の狭い道、虎が石に通じる小路は虎小路というのだそうです。今では誰もその名を憶えていないような小路もかつては名前があり、その名前には由来があるのですね。小路といえば「善光寺七小路」というのが昔から定められていたということは前にお話ししました。そのことについては、今日は省略させていただいて、次にすすめます。
 これも前にお話しした西洋軒のあった新小路ですが、今では誰もその名を呼ぶ人もいなくなりました。中央通りの中澤時計店と清水屋旅館の間にある細い道で、東町に抜けていました。現在は文房具店の倉庫があります。かつてここには西洋軒という西洋料理店がありました。向かいには丸山という鰻屋さんがあったと聞いています。「新小路の西洋軒」といえば、どのへんなのか昔は見当がついたようです。昭和初期の写真を見ますと、清水屋さんの三階建ての建物の軒に「西洋料理 撞球場 大門町西洋軒」の看板が見えます。余談になりますが、この新小路、大門町や西町の大店の旦那衆が権堂に通った道ではないかと私は密かに思っております。根拠はないのですが、花街権堂へのアプローチとしてふさわしい雰囲気があったのではないかと想像するのです。
 地名というのは、よそから来た人にその場所を示すためにも必要なものです。京都の町はよく知られているように碁盤の目のように街路が区切られていて、場所を示すのにたとえば「千本中立売東入ル」というようにいいますが、これは非常に合理的な表示だと思います。そのへんから類推するに、昔の小路の名前というのは、よそからやってくる人のために目印のように付けられたものではないかと思うのです。はんこや小路の○○屋とかしまんりょ小路の××とか、広小路を入ったところの西方寺とか、花屋小路のつきあたりの天神さまとかといった具合にです。
 昔はどこの細い道にでもあった小路の名前が、いつのまにか消えて使われなくなってしまったのは、その必要がなくなってしまったからではないかと思うのです。小路にあった店がなくなり、寺社にもそれほど人が訪れなくなり、もう外に対して場所を示す必要がなくなってしまったからではないでしょうか。新小路は西洋軒も鰻屋もなくなってしまって、近所の人しか利用することがなくなってしまったので、あえて小路の名前を外に対して示す必要がなくなったのです。
 地方の中心市街地の空洞化という時、その視野にはメインストリートしか入っていなかったのですが、それ以前に小路から賑わいが消えていったのです。人にたとえれば、毛細血管に血液が流れなくなったようなもので、こうなると人の体は正常にはたらくはずがありません。
 さてこの現状、いいか悪いかは別として、小路愛好家にはかつての面影をたどるという楽しみもあるのです。
 長野の町から小路の名前が消えていく中で、唯一残っているのはしまんりょ小路ではないかと思うのですが、あそこは今でも飲食店や店が並んでいて、活気をみせています。消えた小路の名前



Posted by 南宜堂 at 16:55│Comments(0)

 
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