2010年02月09日

龍馬と海舟

 坂本龍馬との出会いについて、勝海舟は「氷川清話」の中で「坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いていたな、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ。」という風に話しているが、「おれを殺しに来た奴」というくだりが強調されて、何か刺客として海舟のもとを訪れたようにされてしまっている。
 明治23年に刊行された「追賛一話」ではもっと整理されていて、すなわち「坂本氏、曾て剣客千葉周太郎(重太郎の間違いか)と伴ひ、余を氷川の僑居に訪へり。時に半夜、余、為に我邦海軍の興起せざる可らず所以を談じ、媚々止まず。」とあり、海軍のことについて大いに話し合ったとのだという。それに続いて龍馬の言として次のように記している。「今宵の事、窃に期する所あり、若し公の説如何に依りては、敢て公を刺んと決したり、今や公の説を聴き、大に余の固陋を恥づ、乞う、是よりして公の門下生と為らんと。」
 どうも入門のために訪れたとした方がいいようである。その紹介者は松平慶永であったという。このとき松平慶永は政治総裁職、幕府のトップにいた。そんな雲の上のような政治家が、一介の浪人である坂本龍馬に面会し、勝海舟や横井小楠を紹介するという労をとっているというのは不思議な気がする。
 このことは「坂本龍馬」の著者である池田敬正氏も述べているように、京都方面の有力者の紹介があったのかも知れない。残る問題はなぜ龍馬が選りによって、松平慶永・横井小楠・勝海舟といった人たちを訪ねたのかということである。
 幕閣の中にあって彼らと大久保一翁といった人たちは、どちらかというと開国派と目されていた。松平慶永・横井小楠は破約必戦論者として、攘夷派と見られないこともないのだが、横井小楠の「国是三論」を読むと、国を開き交易をすすめることが不可避であるということが述べられている。破約というのは不平等条約を破約することであって、鎖国の時代に戻すということではないのだ。
 「国是三論」ではさらに海軍のことについても「当今航海大いに開け海外の諸国をも引き受けずしては適わざる時勢となりては、日本孤島の防守は海軍に過ぎたる強兵はなし。」と、興隆を主張している。このことは勝海舟についても同じであった。
 さらに注目すべきは、『官府別に「コットルスクーネル」等の異様船二、三艘を造って総督の人を任じ衆とこれに乗らしめ、これに二、三千金を与えてその出入を問わず一船の討議によって物品の交易あるいは鯨猟等すべてその好むところに任せ、もし交易して利を得ることあらばこれを一船の人員に頒布し、還本は再度の用金に充つ。」と、積極的に船を用いた交易の勧めも行っていることである。
 このことは何やら後の海援隊の姿を彷彿とさせるものがある。龍馬は決して盲滅法松平慶永に面会を申し込んだのではなかったのであろう。おそらく「海」ということをキーワードに、これからそこに乗り出して活躍することの必要性を龍馬は感じ取っていて、そのために松平慶永らの幕閣グループに近づこうとしたのではないだろうか。この時代の龍馬を尊王攘夷の徒とするのが一般的なのだが、もっと先を見据えていたように思えるのである。



Posted by 南宜堂 at 23:08│Comments(0)
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