2007年09月19日

桜小路

 善光寺七小路のひとつです。坂井衡平の「善光寺史」に次のように述べられています。「大塔物語に見ゆ。羅漢小路の西、西長野、戸隠道に当る。古く桜樹植えて遊里などあり。現桜枝町、又廃桜巷庵などあり。」「大塔物語に見ゆ。」とあるのは、1400年頃北信濃にあった大塔合戦の模様を描いたもので、そのなかにこの合戦で戦死した武将の霊を弔うために出家した桜小路の遊女のことが書かれているのを指したものでしょう。
 こんな記述を受けて郷土史の本には、桜小路には遊女がいたと簡単に書いてあるのですが、それではこの遊女という存在の実態はなかなか想像できません。短絡的に江戸時代の遊廓のことを思いうかべてしまうと中世の遊女を正確にとらえられません。
 江戸時代の遊女というのは、遊廓にかかえられて管理売春を強いられていたわけですが、中世でいうところの遊女、あそびめとかうかれめとかいわれていますが、先祖代々の職能集団、全国を漂白して歩いた人々の末裔ではないかといわれております。
 売春が職能というのも現代から見ると変な話ですが、唄や踊りなどさまざまな芸能を交えて貴人たちの旅の無りょうを慰める存在としてあそびめとかうかれめとかいう人々がおり、彼女らはその延長で一夜を共にしたのではないかと、まあこのへんは私の想像ですが思うわけです。そうでないと、彼女らが天皇や貴族の寵愛を受けたといことが理解できません。
 漂白の遊女たちが定住するのは室町時代の頃といわれていますが、この桜小路の遊女がそんな漂白の民の末裔であったのかどうかはいまとなってはわかりませんが、江戸時代の権堂の遊廓の遊女たちとは性格を異にしていたことは確かでしょう。
 桜小路はまた戸隠や鬼無里から長野の町に入る時の入口の町でもありました。前に紹介した田中冬二の次の文は桜枝町のことを描写したものだと思います。「長野の市中でも戸隠街道に通ずる町にはまだ昔の構えが残っている。町並みも古く狭く、粗末な飯屋の前には戸隠から炭や戸隠大根などつけて来た馬が繋がれている。」戸隠や鬼無里の特産である麻や紙を扱う店が並んでいたのもここ桜枝町でした。
 今ではもう戸隠からも鬼無里からも車を使えば桜枝町を通らずに長野に来てしまいますから、桜枝町との関係も薄れ、町としての役割も終わってしまったようです。町の個性ということを考えたら失われていくのはさびしい気がいたします。
桜小路



Posted by 南宜堂 at 00:49│Comments(0)

 
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