2010年02月22日

幕末日記

 勝海舟の「幕末日記」は、文久2年閏8月17日から書き起こされている。すなわち、
「文久二壬戌秋閏八月十七日 於御前、御軍艦奉行並、被仰付。」つまり、この日は海舟が軍艦奉行並となった日である。
 海舟の日記は、後の世の人々が付けていたようないわゆる私小説的なことがらを書き連ねるようなものではない。備忘録のようなものが海舟の日記であり、誰に会ったとか、どんな話をしたとか、こんな書簡を出したとか、後々まで記録として残しておきたいことを日記に付けていたようである。
 閏8月17日を期して、海舟は幕閣の中枢に立つことになるわけであり、日記を付けはじめたということは自らの役目の重大さを自覚したことの現れなのであろう。
 海舟を海軍奉行並に抜擢したのは、政治総裁職松平慶永の力が与っているようである。松平慶永とその政治顧問的な存在である横井小楠は、大久保一翁を通してよく知っていた。慶永には海軍技術官僚としての海舟の実力が十分にわかっていたのである。
 一橋慶喜が将軍後見職に、慶永が政治総裁職に就任したのは、この年の夏のことであった。開明的な二人が幕府のトップに立ったことは海舟にとっても幸いであった。
 万延元年、咸臨丸の実質的な艦長として、アメリカに渡り、無事に帰ってきた海舟は、6月蕃書調所頭取助を命ぜられる。このへんの人事について、海舟は次のように話している。
「米国にも長らく行っていたが、帰朝(かえ)ってきてから、勝は米利堅(めりけん)へ行って何をいってきたろう、などということからして、時に讒者の舌に罹って種々無形の世評を立てられて、ともすると、当今の世界主義とでもいったような主義でもあるかのように言い廻されて、勝は政治方面の方に置いてはいかぬというところから、その頃の蕃書調所という役所の副総裁に任ぜられた。当時の同役は古賀精一で、彼の箕作麟祥などは教授の役を勤めて居た。しかし私の器量は蕃書調所などという閑人のやる仕事は一向好まぬところから、いっさいの事務は古賀一人に任せてしまって、自分は麻裃を着たままで、ゴロゴロと寝ころんでばかり居たのである。」
 勝の後になってからの談話では、危険人物視されて閑職に追い払われていたようなのである。この頃からどうしても海軍のことをやりたいという思いは強かったようだ。その望みが叶ったわけだから、この仕事には相当の意気込みをもって臨んだことだろう。
 就任したばかりの閏8月20日、幕府首脳がこぞって出席し、将軍の前で「海軍の議」があった。その席に海舟も呼ばれ、意見を求められた。
「我邦にて軍艦三百数十挺を備え、幕府の士を以てこれに従事せしめ、海軍の大権、政府にて維持し、東西北南海に軍隊を置かんには、今よりして幾年を経て、全備せん哉」との質問に対し、海舟は「これ五百年の後ならでは」と答えた。
 そんなことよりも、今の急務は人材の養成ではないかと海舟はいうのである。何百隻の軍艦が配備されても、それを取り扱う者の技術が未熟であれば、宝の持ち腐れ、何の役にも立たない。
「今、如此の大業を議せんよりは、寧ろ学術の進歩して、其人物の出でんことこそ肝要ならめ」これが海舟の答えであった。
 開国、海軍の盛大、これは海舟にとって自明のことであった。そのための人材についても、幕臣という狭い範囲から選考するのではなく、広く貴賤を問わず集めるべきであり、この主張は神戸海軍操練所の構想へとつながっていく。



Posted by 南宜堂 at 23:10│Comments(0)
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