2010年02月27日

勝海舟と木村摂津守

 福沢諭吉の「痩我慢の説」をめぐる福沢と勝海舟の確執については、何度も書いてきたが、その発端となったのは、万延元年の咸臨丸の航米であった。
 このときの海舟は実質的な咸臨丸の艦長、福沢は軍艦奉行木村摂津守喜毅の従者であり、その地位には雲泥の差があった。木村喜毅はまた、福沢・海舟の確執劇に登場する重要な脇役となる。
 海舟と木村はどういうめぐり合わせなのか、幕閣として同じような部署を担う事が多かった。まず、長崎海軍伝習所である。ここに海舟は一期生として入所し、引き続き伝習生のリーダーのような形で残っていた。そこに赴任してきたのが、海軍伝習所の取締木村喜毅であった。
 木村は伝習生たちの日常の生活まで厳しく指導したようである。それが海舟らには不満であった。
「奉行が、書生の取締をやかましくしていけない。木村などは、門に錠をかけるのサ。ソレデ、皆が困って、夜になると、塀を越して行く。中には、松の木に、船に遣う綱をかけて、ブラ下る。スルト、榎本(武揚)だったよ。塀の上の忍びガエシをコワして、夜大変な音をさせて、大騒ぎになったことがある。己は、ソレで、夜自分が出るのだからと言って、錠をあけさして、叩きこわしてやった。木村に、そう言うたのだ。「技術が出来れば、ソレで善う御座います。学が出来るか出来ないかで、お責めなさい。ソンナ、小節でかれこれ言う可きものではありません」とひどくいじめてやった。」(「海舟語録」)
 海舟は木村より7歳も年長である。若造に譴責を受けるなどプライドの高い勝には我慢ができなかったのだろう。
 咸臨丸においても、木村は海舟の上司であった。航海のことなど何も知らない木村が自分より上にいるということが勝の癇癪のいちばんの原因であったようだ。そんな海舟の癇癪に対し、困惑していたというのが木村の本音であったようだ。「咸臨丸の艦長にするのでも、どふか行きたいといふ事ですから、お前さんが行ってくれればと云ふので、私から計ったのですが、何分身分を上る事もせず、まだあの頃は、切迫してゐないものですから、ソウ格式を破ると云ふ工合にゆかないので、夫が第一不平で、八つ当りです。」
 木村は若いながら、海舟の不満の原因がよくわかっていた。そして、海舟の才能も十分知っていただけに強圧的な態度には出ることが出来なかったのだろう。
 帰国後の処遇についても、二人の間には差が開いてしまった。木村は引き続き軍艦奉行として、文官の立場から幕府海軍の充実のために活躍する。彼の下には技術官僚として、矢田堀景蔵、小野友五郎、伴鉄太郎といった長崎海軍伝習所、咸臨丸乗り組みと木村と行動を共にした者たちが集った。
 一方の海舟は、蕃書調所頭取助と海軍からは外されてしまう。「軍艦奉行木村摂津守」の著者土居良三氏は「咸臨丸航海中、勝は病気の故もあったが、全く艦長の役割を果していない。」と書いているが、実際にそうであったのかは別にして、幕府首脳はそのように判断して人事を行ったということであろう。
 



Posted by 南宜堂 at 14:27│Comments(2)

この記事へのコメント

楽しく読ませていただきました。
勉強になりました。

ありがとうございます。
Posted by udon86 at 2011年02月11日 08:53
udon86さま
コメントありがとうございます。
勝海舟は上司の木村摂津守をいじめたようですが、決して仲が悪かったと言うことではなかったようです。
明治維新後は海軍の歴史をいっしょに執筆したりしています。
どういう関係だったのでしょうね。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2011年02月11日 22:50
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