2010年03月08日

坂本龍馬の手紙1

 坂本龍馬は行動の人であった。
 というのは後世の人々の共通に持っている認識ではないか。その行動の人に、自分の思いを書き付けている暇はなかったのかもしれない。著述がほとんどない所以であろう。
 日記もない。まめにとはいえないが、大事な局面には克明に日記を記し、自分の思いを書き記した勝海舟とは正反対である。唯一龍馬の肉声を伝えるのは書簡の類いである。いま文庫本(「龍馬の手紙」講談社学術文庫)となって、手軽に読めるようになったのはありがたいことである。
 その文庫本の冒頭に収録されているのは、嘉永6年9月23日付父坂本八平直足あての書簡である。
 年譜によればこの年3月、龍馬は江戸に向かい、北辰一刀流千葉定吉に入門している。6月にはペリー率いる黒船が浦賀に来航し、龍馬は品川土佐藩邸付近の警備に動員されている。
 型通りの時候の挨拶の後、付けたりのように「軍(いくさ)も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく」と記している。
 物騒なことを記しているが、当時の若者としては当然の思いで、黒船来航の興奮の中で、戦間近の思いは誰もが抱いていたことであろう。
 それから11年後の文久3年3月20日付の姉坂本乙女あての書簡には次のように記されている。
「扨も扨も人間の人世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。夫(それ)とくらべてハ私などハ、うんがつよく何ほど死ぬるバへでてもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねバならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりに云々」
 「日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿」とはアメリカ帰りの開国主義者勝海舟のことではないか。世間一般の当時の若者と同様に攘夷主義者であった龍馬は、10年の間にどう変わったのだろうか。



Posted by 南宜堂 at 11:33│Comments(2)

この記事へのコメント

こんにちは、
大河の熱気はすごいです。廻りはみんな龍馬伝を見ています。
先日放送の加尾とのロマンスはもうゲンナリです。
これだけで一話潰しましたね。勿体ない話です。
脚本家は、懸命に勉強はされたでしょうが・・。
確かに龍馬は女好きでしたけど。
お龍は何度も龍馬に、浮気のわび状を書かせていました。
彼女、龍馬の死後、高知に行き、お龍宛ての龍馬の手紙は全て灰燼に帰してしまいました。
今、現存していれば、思わぬ事実が分かったりして・・。

あの当時、正確な情報がどのようにして伝わっていたのでしょうか。
Posted by みちこ at 2010年03月09日 22:06
大河はドラマですから、そう思って見ないときっと腹の立つことがいっぱいあると思います。
「新選組」の時もそうでしたが、近藤や土方が黒船を見に行くということは考えられません。ストーリーの展開でそうなったのでしょう。
作家や演出家の脚色を除いてしまうと、坂本龍馬の生涯は劇的なものではなくなってしまうのかもしれません。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2010年03月09日 23:05
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