2007年09月22日

信州そばの伝統


 新そばの季節といいたいところですが、秋そばの収穫はもっと先のこと、しかも私たちの食べているそばの多くは外国産だということをよく聞きます。以前、北海道の江差を訪れた折、地元のそばやさんでニシンそばを食べました。そこのご主人が言うのに、信州そばといっていますがそば粉のの多くは北海道で穫れたものなんですよと。まあ、ニシンそばだってはじまりは京都ですからとは言いませんでしたが。京都に行くとニシンそばとかしっぽくとか変わったそばがありますが、「麺類丼もの一式」と書かれた食堂ではそれほどそば粉にはこだわっていなかったようです。けっこう業者から納入されるゆでめんをそのまま使っている店が多かったと記憶しています。その点信州のそばやさんは手打ちにこだわったところが多く、水準は高いようです。
 さて相変わらずのはじまり探しですが、文政年間に出版された「諸国道中商人鑑」という今風に言えば旅のガイドブックを見ていますと、信州の街道筋などに「名物しなのそば」とか「二八そば」とかいう看板が見えますから、その頃にはそばは信州の名物となっていたのでしょう。「そばの旨いはお里が知れる」ということわざがあるくらいそばというのは冷涼な荒れた土地に適した植物です。しかも種をまいて80日もすれば収穫できるわけですから、もっぱら救荒食物として育てられてきた経緯があります。
 そんなそばが現在のような「そば切り」として食べられるようになったのには諸説ありますが、有力なものに木曽の本山宿発祥説があります。江戸時代の俳人森川許六の編んだ「風俗文選」という俳文集に「もと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける」とあるのです。この本の出版が宝永三年(1706)年ですから、本山宿でのそば切りの誕生はそれ以前の話ということになります。もっともこれはひとつの説ということで、その他にも甲州天目山が発祥という説もありなかなかはっきりとはしません。
 いずれにせよこうしてはじまったそば切りは江戸でもてはやされ、元禄の末には小麦粉をつなぎとして使う「二八そば」が完成するのです。「二八そば」の語源もはっきりしません。いちばん有力な説は一杯の値段が2×8の16文であったからというのですが、ほかにもそば粉8、小麦粉2の割合でまぜたからとか、2杯が18文であったことの省略からとかいろいろいわれていますが、江戸時代のそば屋の看板にはこの「二八そば」という文字が多くみられます。
 この庶民が気軽に食べられた外食であるそばが、一方で江戸の粋な食べ物として洗練されていく過程というのがあるわけですが、これはまた別の話になります。かんじんなのは信州そばの話です。信州でそばが名物となっていったというのは、やはり信州の地形的気候的な特徴が大いに関係あるものと思います。すなわち、標高が高く冷涼な気候であることが、そば作を育てていったものでしょう。それと茶店や旅篭で出すには、そばは手頃で空腹をしのぐのに格好な食べ物であったということが原因でしょう。ですから信州そばの伝統は江戸の粋とは関係ないところで育まれてきたものではないかと思います。そば打ちの美学とか哲学を標榜するそばやさんはよそから来た人や脱サラの人が多く、伝統的な信州のそば職人というのはあまり小難しいことを言わずに旨いそばを食わせるものだと思っています。
 明治十一年に発行された「長野管下開明長野町新図」によりますと、そば屋としては「大門町ふじき大吉」「元善町叶屋義十郎」「下堀はままつ弥助」「権堂竹野屋」の名が見えます。



Posted by 南宜堂 at 22:07│Comments(0)

 
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