2010年03月12日

龍馬の手紙3

 文久3年から4年にかけての坂本龍馬は、勝海舟のもとで、江戸、大坂、京都、福井、長崎を往来し、勝の人脈につながる幕府の要人たちに会っている。すなわち、松平春嶽、大久保一翁、横井小楠といった人たちである。龍馬29歳から30歳、得意の時期であった。
 勝海舟の弟子になったと、姉乙女に書き送った2ヶ月ばかり過ぎた文久3年5月17日付のやはり乙女宛の手紙である。「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのよふなものになり候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おおきに海軍をおしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり云々」
 勝が将軍家茂より許可を得た神戸海軍操練所の構想を伝える手紙である。さらにひと月ばかり過ぎた6月29日付の手紙には「私事も、此せつハよほどめをいだし、一大藩(ひとつのををきな大名)よくよく心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人斗ハ私し預か候得バ、人数きままにつかひ申候よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候云々」この一大藩とは福井藩のことである。
 この時期、龍馬が関係した人たちはいずれもが幕府の中では開明派といわれて人たちであった。勝海舟の海軍盛大論、大久保一翁の大政奉還論、松平春嶽や横井小楠の公議政体論、彼らの主張を聞く中で、龍馬はそれをどのように受け止め咀嚼していったのか。何も残してくれていないので予測するほかはないのだが、晩年、といってもこれから数年後のことだが、船中八策の中にそれが込められているようである。



Posted by 南宜堂 at 22:29│Comments(0)
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