2010年03月29日

白虎隊の忠義

 今どき、白虎隊の忠義の亡霊が甦ると思うものはいないだろう。だから、白虎隊の忠義を批判し警鐘を鳴らすこと自体が時代錯誤、アナクロニズムなのかもしれない。
 リヒャルト・ハイゼ「日本人の忠誠心と信仰」は、戦前の日本に長く暮らしたドイツ人による、日本文化論ともいってもいい本なのだが、ここに白虎隊の忠誠心が取り上げられている。
「敵の軛につながれて、落剥の身を鎖に縛られたまま、不平不満だらけの長い不幸な人生を老いさらばえるよりも、故郷の子として若く散ったほうがどれほど美しいことか。
 青春の教えにつらぬかれた少年たちは、彼らからすれば悲惨と映る運命をまぬがれる唯一の道をこれだと見つけ出す。」
 ハイゼの目には、白虎隊の少年たちの自刃がこのように美しいものと映った。白虎隊の忠義は、藩主松平容保への忠義である。しかしそれは単に藩主として君臨する殿への忠義の心を越えて、容保が持つ慈しみの心への忠義であり、愛と置き換えてもいいような心情であった。
 それがヨーロッパの合理精神の中で育ってきた人間には、なんともうらやましく崇高なものに見えたのではないだろうか。
 ハイゼは、飯盛山に建つイタリアのムッソリーニから贈られた記念碑に触れて、次のように述べている。
「白虎隊、そしてさらに広い意味では、松平容保に仕えたすべてのサムライや家来たちの胸を高鳴らせた徳目や志操は、今日のような時代といえども一民族の指導者なら誰もがその部下や信奉者にのぞむところのものである。自我を捨てた忠誠、犠牲をいとわぬ祖国愛、そして嬉々とした従順さ、これらは、国家繁栄をめざす統治と支配を容易ならしめる。」
 実際に白虎隊の忠義は、15年戦争の時代に、天皇への忠義に置き換えられて、賞賛されてきた。白虎隊の忠義は純粋であっても、それを利用とする者たちの動機は不純であるということの証明である。
 白虎隊の少年たちの行動は、慶応4年の会津の環境の中で考えなければいけないだろう。彼らは日新館の教育に従順であり、会津武士としての忠節をまっとうした。 
 しかし、140年が過ぎた現代から見ると、それは悲劇でありあまりにもったいない死であった。



Posted by 南宜堂 at 21:43│Comments(0)
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