2010年04月02日

晩年の勝海舟

「毎年、毎月、毎日、同じ座敷に同じように胡座をかいて、朝から晩まで客と話しをして、少しも倦むということなく、ちょっと庭に出て散歩するというだけの事すらなさらぬ。この一時だけでも、既に常人の耐えがたき所である。少しは、外にお出になるようにと、勧める人もある。中には心配してお勧めする人もあったが、一向、聴かれない。ある時、某という著名の医学博士が同様の勧告をして、運動とか、衛生とかいう例の理屈をいうと、「そんナ事は、馬鹿にお言いなさい。己の体には、運動は入らないよ」と言われた。」
 巌本善治の描写する勝海舟晩年の日常である。気力が衰えたのか、ただものぐさなだけなのかと思いきや、「一日でもあけると、またあとが困るというお話であった。」
「色々相談に乗っている所もあるから、一日留守にすると、手後れにもなり云々」ということで、なかなか家を空けるわけにはいかないというのであった。
「色々相談に乗っている」とは、おそらく旧幕臣たちの相談に乗っているということであろう。海舟はあまりそういうことは人には話さないから、「大逆臣」「腰抜け」と陰でののしるものは多い。
 巌本の師である木村熊二なども、海舟に世話になった一人であった。木村は明治維新の頃、海舟の下で働いていた。維新後、渡米を希望した木村に200両という大金を、海舟は援助している。
 木村の滞米は13年にも及んだ。その間留守宅を守る妻の鐙子にも、しばしば金銭的な援助をしていた。
 帰国した木村は、鐙子とともに九段に明治女学校を開校する。この時の発起人に巌本善治も名を連ねている。

勝海舟晩年の住まい跡  
晩年の勝海舟



Posted by 南宜堂 at 15:11│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。