2010年04月03日

木村鐙子

「初めて先生に謁せしは、明治二十年八月とす。」
 巌本良治が初めて赤坂氷川町の勝海舟邸を訪れたのは、明治20年8月であったと記している。用件は、「木村鐙子小伝」の序文を書いてもらうためであった。
 木村鐙子は、木村熊二の妻で、夫を助けて明治女学校の経営に尽していたが、明治19年、39歳の若さでコレラのため他界した。
 木村夫妻の身近にあった巌本は、鐙子の死に大きな衝撃を受けた。その悲しみの思いを抱いて「女学雑誌」に「木村とう子の伝」の連載をはじめた。
 翌年、巌本はこれをまとめて「木村鐙子小伝」として出版したが、この序文を海舟に頼んだのである。先に書いたように、海舟は木村熊二も鐙子もよく知っていた。この執筆を海舟は快諾した。
 鐙子は巌本よりは16歳も年長であり、「余が鐙君に於ける、実に母子の情ありき。」と母のような存在であったと告白している。
 その後、巌本は木村の後を継いで第2代目の明治女学校の校長になる。そして、海舟邸への訪問も回を重ねるようになるのである。



Posted by 南宜堂 at 14:20│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。