2010年04月04日

先生を失うの嘆き

「ああ、睡れると覚めたると、その間なお接続あり。かの逝くものや、気息絶する時、魂魄去り、生死刹那に分れ、幽明立ちどころに隔たる。その距離千万里、長久えにこれを喚ぶこと能わず。音容は眼中に存すれども、その人なし。臥棺は横たわれども、その声なし。そもそも、気息の絶するとは、何の事ぞや。」
 明治32年1月25日発行「女学雑誌」第480号に載った巌本善治の『先生を失うの嘆き」という文の一節である。先生とは勝海舟のことで、海舟はこの年の1月21日に亡くなっている。亡くなった直後に書かれたものであろう。
 明治時代の文章にある、特有の大げさな感情表現なのかと読み進んだのであるが、その後に巌本の人となりを知るにつけ、これは誇張なんかではない、彼の魂の叫びなのではないかと思うようになってきた。
 巌本善治は文久3年、播州出石の生まれである。ともに明治女学校を支えた木村熊二と同郷である。5歳の時に同じ播州の福本藩の家老格巌本家の養子になった。
 明治9年に上京し、主に農学を学んだ。明治15年に木村に出会い、翌16年に受洗しキリスト教徒となっている。明治22年、フェリス英和女学校で英語を教えていた島田嘉志子と結婚した。「小公子」などを翻訳した若松賤子である。
 明治25年には木村に代って明治女学校の校長に就任している。明治女学校の経営は苦しかった。ミッションスクールというと華やかな印象があるが、明治女学校は志はあるものの、苦しい経営が続いたようである。
 そんな時代に巌本は勝海舟の知遇を得たのである。海舟は巌本への協力も惜しまなかったようだ。明治女学校の後援会長を引き受け、武道場を寄付したりしている。



Posted by 南宜堂 at 21:28│Comments(0)
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