2007年10月03日

無年齢者 時間を越えて

 たまたま読んだ本にこんなことが載っていました。孫引きですがおゆるしください。
「われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。」 
 ミラン・クンデラという作家の「不滅」という小説に上のような一節があるのだそうです。私たちはたいていの場合無年齢者で居るのであり、ときどき何かの拍子に自分の年齢を思い知らされるということなのでしょう。
 確かに、ふだん自分の年齢を意識することはありません。時に目の前にいる若い女性に心ときめかしたり、映画やテレビの若い主人公に自分を重ね合わせることだってあります。まだまだ自分には無限の可能性が残されていて、やりたいことだっていっぱいあるのだと、そんな思いにとらえられることだってしばしばです。
 それでは、自分の年齢を意識する時はどんな時かというと、まあ階段を昇るのが息苦しくなったりとか、あるいは目の前にいる老人が自分より年下だと知った時なんかは、けっこう落ち込んだりします。
 自分のからだの外部では普通に時間が流れているのに、自分の心の中では時間がゆっくりと流れているということなのでしょうか。
 ただ否応なく自分の老いを意識する時があります。それは、勤め人でいうなら定年で職場を去る時であり、その他のひとたちでも自分の仕事から引退する時でしょう。それは、あなたの役目は終わりましたよ、どうもご苦労様と世間からいわれるということですから。
 なかなかそのことがあきらめられない人は地区の役員をやったり、ボランティアに精を出したりと、自分の存在意義をなんとか見いだそうとするわけです。
 まあね気持ちはわからないわけではないのですが、悪あがきのような気がしないでもありません。どんなに頑張ってみてもね知力も体力も若い者にはかなうわけがないのです。よく老人の知恵とか人生経験豊富なところでなどとおだてられたりはしますが、あれはたいなる社交辞令、そんなものはたいして期待されているわけではありません。
 どうでしょう。引退したら、世間の秩序だとか価値基準なんかはきっぱり棄てて、やりたい放題気楽に過ごすなんてのは。江戸時代の商人は、自分が見極めたところで身上すべてを息子にゆずって、自分はどこか静かなところで隠居生活をはじめたといいます。隠居してどうするのか。落語にあるでしょう「茶の湯」というのが。人の迷惑かえりみず、インチキくさい茶の湯に明け暮れるなんぞ、結構楽しいもんかもしれません。



Posted by 南宜堂 at 22:22│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。