2010年05月13日

きょうのテンツバ 2

一つの嘘は嘘である
二つの嘘も嘘である
三つの嘘は政治である(ユダヤの諺)

 嘘つきは泥棒の始まりというのはよく子供の頃に聞かされたことです。しかし大人になると、時に嘘がないと世の中ぎすぎすしてしまうと思うようになりました。
 政治と嘘というとまず思い出すのは公約。政治に嘘はつきものといわれる所以です。しかし、このユダヤの諺にいう政治の嘘は、かけひきとかそんな意味に解した方がいいのかもしれません。
 公約なんてものは守る必要がないとうそぶいたのは、プレスリー好きの元首相だったと思いますが、そんな気楽な気持ちで嘘をつかれたのではたまったものではありません。
 佐久間象山の「省諐録(せいけんろく)」は、吉田松陰の下田踏海事件に連座して伝馬町の獄にあったとき、日々考えたことを出獄後に記したものです。郷里松代で記されました。その中にこんな一節があります。
「ここに人ありて、君父の疾病を憂えてこれが薬を求め、幸にしてこれを得、かつその必ず効あるを知らば、すなわちその品の貴賤、名の美悪を問わず、必ずこれを君父に請う。君父その名を悪(にく)みて許さずんば、すなわち多方これを謀りて竊(ひそ)かにこれを進むることあらんか、そもそもまた坐(い)ながらにしてその手足を啓(ひら)くを俟(ま)たんか。臣子の至誠惻怛(そくだつ)の情、固(もと)よりその病患を坐視すべからざれば、すなわち後にその怒に逢わんことを知るといえども、またあに竊かにこれを進めざるを得んや。」
 自分の主君が病気にかかり、特効薬があると聞けばどんな手段をもってもそれを手に入れるだろう。主君がそんな方法で手に入れた薬など飲めるかと言ったなら、どんな嘘をついてでも飲ませるだろうというもので、ここで主君を国と置き換えて、象山や松陰の国禁を犯した行為を申し開きしたものとも考えることもできます。
 まさに国を救うために命がけでつく嘘、国禁を犯すといういうことであり、自分たちの身の保全のためにつく御都合主義の嘘とははっきりと区別すべきものです。
きょうのテンツバ 2



Posted by 南宜堂 at 15:41│Comments(0)
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