2007年10月13日

昭和初年の長野 1 仏閣型駅舎

 地図の解説にと以前発表した文章を手直ししてみました。初めて読まれる方もおられるかと思いますので、ここに再録いたします。ご愛読いただければ幸いです。

 昭和初期の長野駅は、お馴染みの仏閣型の駅舎とは違っていました。写真で見ると、木造二階建ての、ちょうど昔の木造校舎のような外観をしていました。この駅舎は大正九年に完成したもので、乗降客の増加に対応するため、敷地を拡張し建設されました。

 長野市民や観光客に親しまれた仏閣型の長野駅舎が完成したのは昭和十一年のことです。三月十五日の朝八時に華々しく花火が打ち上げられ、午前十時から竣工式が行われました。地元の末広町、南千歳町、南北石堂町では戸毎に国旗を飾って新駅の完成を祝いました。総工費は十五万二千六百二十四円、鉄筋鉄骨造りで三層屋根は銅板葺きでした。同時に千二百坪の駅前広場もつくられ、如是姫の像はこの時善光寺境内から移されています。
 三月十五日付けの信濃毎日新聞はその模様を次のように伝えています。「仏都を象徴した豪華なローカルカラーと明朗なモダン性を濃く彩って仏閣型長野駅が近代建築学の粋を凝らして竣成した。古典とメカニズムの美しい構成美が、早春の空に映光と威容を発して『仏都長野市』の玄関口に相応しい色彩を多分に滲み出している。」
膨大な建設費をかけてまで、仏閣型にこだわった駅舎がつくられたのは、先の新聞の記事を引用すると「『仏都長野市』の玄関口に相応しい色彩」を醸し出すためでした。昔から善光寺は全国から多くの参詣の人を集めていましたが、鉄道が開通してからは、飛躍的にその数が増えたのです。特に御開帳の年は団体の参詣客が期間中ひきをきらなかったようです。そんな善光寺門前町の玄関である長野駅は、それにふさわしい建物でなければならなかったのです。ちなみにこの年は善光寺の御開帳が開かれた年であり、この新駅舎は誘客のためにも一役買っています。
わが国の駅舎のなかでも、明治の末から大正、昭和初期につくられたものは、非常に装飾性の強い、町の象徴になるにふさわしいものが多くありました。大正三年に完成した赤れんがの東京駅、昭和九年に完成した奈良駅などがその代表ですが、昭和十一年に完成した長野駅も「仏都長野の象徴」とよばれるにふさわしい仏閣型の駅舎でした。
 よく善光寺を模してつくられたといわれる先代の長野駅ですが、善光寺本堂の形とは微妙に違っていました。あの駅舎、善光寺は善光寺でも鎌倉時代の善光寺、「一遍聖絵」に描かれた善光寺本堂をモデルにしたものだといわれています。昭和初期の設計思想というものは、かくも古典に対して律儀なものだったのかと感心するばかりです。

昭和初期の長野駅舎(上
と昭和11年完成の駅舎(下

昭和初年の長野 1 仏閣型駅舎
昭和初年の長野 1 仏閣型駅舎



Posted by 南宜堂 at 21:33│Comments(0)

 
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