2010年05月27日

でもくらちいを考える

 「龍馬伝」の中で「でもくらちい(デモクラシー)」を説いた横井小楠であったが、実際はどうであったのか。万延元年に福井藩に招かれたときに著した「国是三論」のことは前に書いた。その中からデモクラシーらしきことを述べたところを引き写すと、
「メリケンにおいてはワシントン以来三大規模を立て、一は天地間の惨毒殺戮に超えたるなきゆえ天意に則って宇内の戦争を息めるをもって務めとし、一は智識を世界万国に取りて治教を裨益するをもって務めとし、一は全国の大統領の権柄賢に譲りて子に伝えず、君臣の義を廃してひたすら公共和平をもって務めとし政法治術その他百般の技芸器械等に至るまでおよそ地球上善美と称する者はことごとく取りてわが有となし大いに好生の仁風を揚げ云々」とある。
 大統領の権力をその子に世襲させるのではなく、「賢に譲り」、つまりふさわしいものが大統領に就くということであり、君臣の義を廃すとあるので武士階級での平等をうたっているのである。
 勝海舟は『氷川清話』の中で横井の事を「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。」と述べ、「横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思ったことがしばしばあったヨ。」と語っている。横井は洋行の経験はない。勝らに彼らの見聞を聞いただけなのだが、すぐさまにその本質をとらえてしまったようなのである。
 「国是三論」で述べているアメリカの大統領制のことも、市民社会の平等のこともそうやって理解したものであろう。しかし、横井の頭にあったのは中国の曉舜の治の再来のような社会であって、現実に海の向こうにあるアメリカ合衆国の治そのものではなかったようだ。だから大統領は選ばれる者というよりは譲られる者であり、民は尽くす者ではなく治めるものであるのだ。
 幕末期、いわゆる公議政体派と呼ばれた松平春嶽や勝海舟、大久保一翁らの徳川後の政権構想というものも、この横井小楠の論を土台にしたものであったように思われる。坂本龍馬の船中八策もまたしかりであろう。
「一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難(かた)しとせず。伏(ふし)て願(ねがは)くは公明正大の道理に基(もとづ)き、一大英断を以て天下と更始一新せん。」

 この船中八策の起草者が坂本龍馬であるか否かということについては議論のあるところで、上田藩の赤松小三郎ではないかという説もある。いずれにせよ、この策は横井の思想の影響を強く受けており、彼に接することのできたものが作ったであろうことは推測できる。



Posted by 南宜堂 at 20:34│Comments(0)
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