2007年10月16日

「信濃の国」異聞

 これは個人的な考えなのですが、江戸時代のことはフィクションとノンフィクションの境の曖昧な物語としてしまってもいいのではないかと。例えば、川中島の戦いで信玄と謙信の一騎打ちがあったかどうかとか、山本勘介という武将は実在したのかというようなことは郷土史家の方は別として、私たちはお話として面白ければそう思って楽しめばいいかなと思います。
 ただし、明治以降のことについては現代までそのしっぽが引きずられているようなこともたくさんあり、簡単には済まされないような気がしております。県歌「信濃の国」の成立については、以前にもここで述べたことがありますが、最近新聞で「軍事増強的な風潮に抗して」作られたというようなニュアンスで取り上げられていました。「反戦まで意図したわけではないが、背景には軍国主義一辺倒への危機感ものぞく。」(信濃毎日新聞10月14日)新聞記事というのは書いたものの意図を曖昧に、よくわからない表現が多いのですが、読むものは勝手に「そうか、信濃教育会は当時の軍国主義的な風潮に抵抗していたのか」という風にも読みとってしまいます。
 確かに、当時は日清戦争の勝利の後で、ほかに適当な唱歌もなかったことから学校では軍歌ばかり歌っていた。もっと子供達の情操教育にふさわしく愛国心、愛郷心の涵養にも役立つものをということでね信濃教育会が浅井洌らに委嘱して作られたのが「信濃の国」ほかの唱歌であったということがいわれております。
 これそのまま、「軍備増強の風潮に抗して」としてしまったのでは、「信濃の国」成立美談ということになりはしないでしょうか。当時は軍備増強の風潮ではあったにしろ、太平洋戦争開戦前夜の日本とはことなり、極端な言論弾圧時代ということではなく、「信濃の国」程度の歌は別に問題視されることもなかったと思います。むしろ、昭和初期の時代においても「信濃の国」の歌詞は問題になるどころか愛郷の歌としておおいに称揚されたのではないかと思います。
 信濃教育会という団体は、当時は長野県の教育行政とほぼ同じであったと考えていいと思います。信濃教育会の幹部はそのまま長野県の教育界の指導者となっていました。その状況は昭和になっても続き、満蒙開拓ににも大きな影響力を及ぼしました。「軍事増強的な風潮に抗して」どころか、軍国主義のお先棒を担いだのが戦前の信濃教育会です。もちろん信濃教育会も素晴らしい教育者を多数輩出しており、誇るべき信州教育の伝統を作ったのが信濃教育会であることは十分理解されなければなりません。
 明治と昭和の時代状況をごっちゃにして、信濃教育会が時の権力に抵抗して「信濃の国」をつくったなどということを言われては、作詞者である浅井洌も墓の下で苦虫をかみつぶしているのではないでしょうか。



Posted by 南宜堂 at 10:59│Comments(0)

 
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