2007年10月17日

信濃の国異聞 つづき

 どうも年甲斐もなく「信濃の国」の話になりますと熱くなるようで、これも愛郷心のあらわれなのでしょうか。「信濃の国」の出来た時の時代状況というのは確かに、日清戦争に勝利して大国日本への押せ押せムードの時だったと思います。子どもたちが軍歌ばかり歌っていたというのは、その時代の反映でしょうが、例えば今のこどもたちが、テレビのCMソングばかり歌っていて学校で教わる歌をちっとも歌わないで困る、というようなそんなニュアンスでの心配だったのではないかと思います。こんな歌ばかり歌っていたのでは子どもの情操教育に良くない、そんな程度の事だったのであり、決して軍国主義へ傾倒していく時代への批判などという大げさなものではなかったと思います。
 この記事を書いた記者氏の脳裏には抵抗の新聞人と呼ばれた桐生悠々のことでも浮かんだのでしょうか。桐生悠々は信濃毎日新聞の主筆をつとめた人で、「関東防空大演習を嗤う」という記事で時の軍部と対立した人です。軍部に抵抗した桐生が信毎に在職していたのは昭和初期のことで、明治の信州とはだいぶ時代が違います。結局桐生はこの記事が災いして信毎を去るのですが、それは軍部の圧力に新聞社が屈したというより読者の不買運動に屈したということのほうが大きな理由であったといわれています。今でも信濃毎日新聞社には桐生悠々の机が残されているということですが、権力への抵抗もさることながら、その前に正確な情報に基づいて記事を書くことを肝に銘じるべきでしょう。ちょっと南宜堂らしくない物言いになってきました。新聞という巨大な、しかも一方通行の巨大メディアには、零細ブログはこのくらいかみついてもゆるされるでしょう。



Posted by 南宜堂 at 17:12│Comments(0)

 
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