2007年10月17日

昭和初年の長野 4 詩人が住んだ町 妻科

 戦前の一時期、妻科に住んだ詩人田中冬二のことはあまり長野の人には知られていないようです。
「長野は仏の町である。山の傾斜にあって坂の多い町である。辻々から山の見える町である。ものしずかな町である。そして燈火のうつくしい町である。/高原で空気の澄んでいるゆえであろうか、わけて冬の燈火の色はなんともいえない。/凍寒の気に冴え冴えしているが、またそのあかりの圏内だけ何か人情的のものを持っている。」(「美しき燈火の町」)
 彼の作品集に『妻科の家』というタイトルのものがありますが、その妻科の家は今はもう残っていません。場所は、妻科神社の角を北に曲がり、一筋目を西に入った場所です。現在は駐車場になってしまい、その家をしのぶことはできませんが、眼下には長野県庁を見下ろし、背後には旭山がそびえる高台にあって、冬二が朝夕眺めたであろう風景を想像することができます。もちろん当時はこれほど家も建て込んではいなかったでしょうし、県庁も木造二階建てルネサンス風のクラシックなものでした。
 田中冬二は、四季派の詩人であるとともに、安田銀行(現在のみずほ銀行)に勤める銀行員でした。彼は昭和十四年二月、安田銀行長野支店の副長として東京より赴任し、昭和十七年諏訪支店長となって転任するまでの足掛け三年間、長野の妻科に家族とともに住んでいます。みずほ銀行長野支店は、昭和二十三年までは安田銀行といっていました。当時の安田銀行長野支店は、現在地より北の川中島バス大門町バス停の辺にありました。
 妻科の家から大門町の安田銀行まで、冬二は大好きな長野の町を歩いて通ったのでしょう。県町、長門町、若松町、このあたりはまだむかしの風情が残る町です。足の向くままに小路に迷い込むと、小川が流れていたり、お地蔵さんのほこらがあったり、屋根の間から旭山が見えたりします。
 「長野の市中でも戸隠街道に通ずる町にはまだ昔の構えが残っている。町並みも古く狭く、粗末な飯屋の前には戸隠から炭や戸隠大根などつけて来た馬が繋がれている。」
 この町はおそらく桜枝町のことでしょう。荒木、七瀬、桜枝町。長野の町のはずれには、そんな近郷からやって来た人相手の町がつい最近までありました。
 田中冬二が長野の町をうたった詩にはほかにこんなものもあります。
「山の傾斜地の林檎園では袋かけをしてゐた/ほととぎすがないた/麦の穂波がひかり 桑の葉はあかるくしろくかへつた/縁先近く柿の花がこぼれて もう薄暑を感じた/夜 善光寺の町には 蕨夏みかんさくらんぼ/それから芍薬や菖蒲の剪花を売る露店が出た/槲の葉も売つていた」(「山国初夏」)
 夏の夜の風物詩である夜店、八月十二日のお花市の夜をのぞけば、長野では見られなくなってしまった光景ですが、戦前まではさかんに開かれていたようです。
七月下旬から八月の旧盆の頃にかけて、西町、西之門町、大門町に夜店が出ていました。当時の人々は植木屋、水菓子屋、古道具屋などを冷やかしながらそぞろ歩きを楽しんだようです。板戸を閉めた店があります。まだ、こうこうと明かりを照らし商いをしている店もあります。そんな町の一角に並ぶ屋台は、カンテラ、ランプ、裸電灯と思い思いの灯をともし、季節の果物や切り花を並べています。なかには、骨董を売る店なども出ていて、カンテラの光に照らされて怪し気な光を放っています。この胡散臭さがまた夜店の魅力だったのです。



Posted by 南宜堂 at 21:28│Comments(0)

 
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