2007年10月18日

昭和初年の長野 5 長野電鉄

 須坂ム長野間の鉄道建設のきっかけとなったのは長野市と周辺市町村との合併問題でした。上水内郡の吉田、三輪、芹田、古牧の四町村の長野市への合併の話が持ち上がった時、吉田町の出した要望は電車の通過でした。
 吉田町には明治三十一年開通の信越線吉田駅がありました。この駅は、須坂・高井地方の製糸業者が生糸や原料繭の運搬の利便をはかるために熱心な設置運動をした結果生まれたものでした。しかし、大正十一年河東鉄道の屋代・須坂間が開通すると、そちらの方が関東地方への近道ということで、利用が増大したのです。吉田駅の荷物の取り扱いは大幅に減少してしまいました。そんな状況に危機感を抱いた吉田町の有力者たちが、須坂・長野間の鉄道建設を強力に要望したのです。
この要望は時の長野市長丸山弁三郎も積極的に支持し、市が株式の募集と建設費の一部負担を条件に、河東鉄道の神津籐平に対し須坂・長野間の鉄道敷設を強く働きかけました。そんな経緯があって、長野電気鉄道は動きはじめたのです。会社としての発足は大正十二年十一月二十五日のことです。
 長野電鉄の初代社長となった神津藤平は、北佐久郡志賀村(現在の佐久市)の名家の出身で、佐久鉄道の相談役から大正九年河東鉄道の発足に伴い社長に就任していました。その後長野電鉄の社長に就任してからは、多くの事業を手がけましたが、志賀高原の開発には特に力を注ぎ、国内でも有数のスキー場に育て上げました。
 会社は発足したものの、鉄道の建設に向け動きはじめたのはおそく、大正十五年になってようやく実を結ぶことになりました。開通のためのいちばんのネックとなったのは、千曲川に橋を架けることでした。この事業を長野電気鉄道が単独で行った場合、工事費として百万円が見積もられていました。しかしたまたまこの時期、県道長野・須坂線の村山橋が老朽化し、架け替えの時期にきていたのです。長野電鉄はそれに便乗する形で、鉄道と道路の併用橋として建設することに協力しました。かくして、村山橋は全国的にも珍しい県道と鉄道の共同の橋とすることになったのです。
 六月二十八日、須坂ム権堂間に電車が走りはじめました。権堂まで開通した長野電気鉄道が、長野駅まで乗り入れたのは昭和三年六月二十四日のことです。
 長野・須坂間とは別に、長野電気鉄道には善光寺環状鉄道の構想がありました。これは、大正十二年に松本の筑摩鉄道が中央通りに電車を走らせる申請を長野県に提出したことに対抗したものです。筑摩鉄道はかねてから、松本・長野間の犀川沿いに鉄道を走らせる計画を持っており、その一環として長野市の中央通りに市街電車を走らせようとしたものでした。
 善光寺環状鉄道とは、中央通りに軌道を敷き、それを丹波島・川中島・篠ノ井・稲荷山・八幡・上山田温泉・戸倉・屋代と結んで河東鉄道に接続するというものでした。
 路面電車を走らせる計画は、もう一本長野市が申請したものがありました。三者が競合したこの問題は県知事までが斡旋に乗り出すことになったものの話し合いはつきませんでした。
 現在のように自家用車や貨物トラックでの輸送が普及していなかった当時としては、鉄道は将来性のある産業だったようです。しかしこの計画は、筑摩鉄道のスト、昭和恐慌の影響で結局は沙汰止みとなって、そのまましぼんでしまいました。



Posted by 南宜堂 at 08:56│Comments(0)

 
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