2007年10月20日

昭和初年の長野 6 善白鉄道

 昭和十一年から十九年までのたった七年間、裾花川に沿って走っていた小さな鉄道がありました。名前を善光寺白馬電鉄、略して善白鉄道といいます。善光寺白馬と称しながら実際の線路は長野から善光寺温泉の先までしか開通しませんでした。昭和四年十一月、善光寺白馬電鉄は資本金二百万円で設立されました。社長は立見豊丸、本社は長野市桜枝町に置かれました。
 善白鉄道は最初から多難な船出でした。資金難で用地の買収が難航し、ようやく着工をみたのは昭和五年のことでした。昭和十一年十一月二十二日、待望の南長野・善光寺温泉東口間が開通しました。東口駅は、善光寺温泉駅が地滑りに見舞われたため臨時に設けられた駅で、翌月の二十六日善光寺温泉駅が完成すると、ここが終点となりました。
 線路は電車用に建設されていましたが、経済効率を考えて、導入されたのはガソリンカーでした。残された写真を見ると、車両は一両ないしは二両編成で、裾花川に沿った山間をのどかに走っていました。南長野・善光寺温泉間を一日十往復、片道十七分という短い路線でした。運賃は片道十八銭でした。
 鉄道の開通でいちばん恩恵を受けたのは、善光寺温泉と茂菅鉱泉だったといいます。長野から手軽に行ける行楽地ができたということで、開通当初は満員盛況の日が続きました。しかし、この混雑は長続きしませんでした。いつしか通勤、通学時以外は閑散とした車輌が走るようになったのです。
 赤字続きの善白鉄道でしたが、当初の目標としていた北城までの工事は細々と続けられました。善光寺温泉駅開通から六年後、昭和十七年、裾花口までの一キロがようやく開通しました。その後一時乗客が多くなるのですが、それは皮肉にも太平洋戦争が激しさを増し、長野の軍需工場に通う人が増えたからでした。
 昭和十八年十二月十日、東京の鉄道省に呼び出された松本久森善白鉄道社長は、一枚の命令書を受け取りました。書かれていたのは「全区間の路線を撤去し、営業を休止せよ」というものでした。軍事体制下にあっては善白鉄道は不要不急線であるという烙印が押されたのです。
 昭和十九年一月十日、営業は休止し、レールははずされました。はずされたレールや鉄橋などは東南アジア方面の前線へ軍事資材として送られていきました。あっけない幕切れでした。



Posted by 南宜堂 at 10:20│Comments(0)

 
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