2010年07月20日

戊辰の敗者

 天田愚庵はもとの名を甘田久五郎といった。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれている。
 明治元年、戊辰戦争が勃発するや、平藩は奥羽越列藩同盟の一員として、いわゆる官軍に敵対することとなった。7月13日、平城は官軍の攻撃によって落城する。この落城の前に、久五郎は、年老いた父母、幼い妹を守って郊外に避難していた。 
 しかし、「物の役に立たず候とも、譜代重恩の君の御為にせめては垜(あづち)の端塊(はしくれ)ともなり、銃丸の一つも防がばや」と城下に戻り、敵との戦いに身を投じた。
 しかし、久五郎らは敗走を重ね、仙台にまで逃れた。九月、藩は降伏し、久五郎らは平に戻ったが、両親らは戦乱の中で行方知れずとなり、四方八方尋ねるが、生きているのか死んでいるのかさえもわからなかった。置き去りにした形となった久五郎には、後悔の念だけが残った。
 この時から久五郎の両親を求めての彷徨がはじまるのである。平藩は二万石減封ながらも存続は許された。藩士たちは生活の再建に向けて活動をはじめるが、灰燼と化した城下での暮らしは厳しかった。
 愚庵は上京する。何かあてがあったわけではない。一日玄米三合の捨扶持では故郷にいても野垂死ぬだけと、思いあまっての上京であった。まず身を寄せたのが、神田駿河台にできたばかりのギリシャ正教の神学校であった。
「西にも東にも知るよしなければ茫然として宿屋に在るうち、多からぬ旅費は尽き果てたり。詮方なきまでにいたれば詮方のあるものにて、伊藤は下谷の大野某に身を寄せ、五郎(愚庵)は保科保といふ同郷人の世話にて魯西亜の司祭ニコライ氏が建てたる駿河台の希臘教の学校に入りたり。」
 ニコライ神父が2度目の来日をして、東京神田駿河台に神学校を建てたのは、明治5年のことである。したがって愚庵の上京もその頃のことと思われる。
戊辰の敗者



Posted by 南宜堂 at 14:37│Comments(0)
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