2010年07月23日

小池詳敬・石丸八郎

 ニコライの神学校を離れた天田愚庵は、「仙台の関係者の紹介か、石丸八郎に寄寓、その後、明治新政府正院大書記の職にあった小池詳敬に養われることになった。」(高橋敏「清水次郎長と幕末維新」)
 高橋氏はいとも簡単に書くが、この二人の人物の登場は唐突である。いったい何者なのであろうか。誰もが知っている人物ではないことは確かだ。
 年表(「愚庵全集」)によると、「明治4年 姓を天田と改む、秋上京、神田駿河台のニコライ神学校に入学す。
明治5年 神学校を退き、正院大主記小池詳敬に寄食。落合直亮に国学を学び、山岡鉄舟に禅を問う。」とあり、明治5年に神学校を退いた後、石丸八郎ついで小池詳敬のやっかいになったということである。
 しかし、日本正教会のホームページには、神学校の設立を「ニコライは明治5年頃、東京に伝道の本拠地を移し、正教会の伝道を熱心に行いました。」とあるので、4年に神学校入学という「年表」の記述は怪しくなる。
 こんなことにこだわるのは、石丸や小池の履歴に関係がある。明治新政府は、成立直後はキリスト教禁止を基本方針としていた。「新政府はこのようなキリスト教禁止政策にもとづいて、キリスト教宣教師らのもとに密偵を潜入させ、その動静を探らせていた。」(大日方純夫「明治新政府とキリスト教」)その指令を出していたのが、政府直属の機関である「正院監部」であった。正院は明治4年に設置されており、それ以前は弾正台が密偵の取締を行っていた。
 小池詳敬は正院でこの密偵たちの上にいた。密偵となったのはほとんどが浄土真宗の僧侶たちで、いわゆるスパイとか工作員とかいうイメージで彼らをとらえるべきではないようだ。彼らは自らの信念に基づき、邪教を打ち払うために活動していたのである。
 石丸八郎は「越前今立郡定友村の唯宝寺の住職の子で、もともとは良厳と称した人物であった。幕末以来、「閥邪運動」、つまりキリスト教排撃運動を展開した人物として知られる。」
 政府のキリスト教容認への政策の変更にともなって、正院の存在は有名無実化する。小池詳敬が自らとその配下の辞任を願い出るのは、明治6年のことである。
 愚庵が石丸や小池に世話になるのはそれ以前、明治5年の頃といわれている。愚庵と小池らを結びつけたのは、キリスト教に対する密偵活動においてだったのかもしれない。
 もとより、愚庵はギリシャ正教の宣教師たちの説得にも関わらず、自らの信念を曲げていない。そんな愚庵に親しみを感じたのか、小池や石丸は愚庵と交わるようになり、その性格に惚れ込んで寄食を許したのかもしれない。
 



Posted by 南宜堂 at 19:29│Comments(0)
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