2010年07月28日

風雲烏城 3

 昼間は玉田のじいさんは旅烏一家の雑用をこなしています。薪割りとか、水汲みとか、風呂炊きとか、そんなことがじいさんの日常です。
 カンタローも食客とはいいながら、まだ一人前の仕事を任されることもなく、いきおいじいさんの仕事を手伝うことが多かったのです。そんなことで、二人は自然に親しく話をかわすようになりました。
「玉秀斎さんはあの立横文庫を書いていたっていうのはほんとうなんですか」
 ある日、カンタローは薪割りをしながらじいさんに話しかけました。
「えっ、そんなこと誰に聞いたんだい」
 じいさんはちょっと驚いたように、薪を揃える手を止めてカンタローの方を見ました。
「いえね、きのう来た浪曲師の天中軒雪衛門さんが、むかし同じ寄席に出ていたことがあるって言ってました。高座に上がらなくなったと思ったら、立横文庫の原作をかくようになったんでびっくりしたって。おいらもあれ何冊か持っていますよ。水戸黄門漫遊記とか、荒木又右衛門とか」
「雪衛門が来ていたのかい。あいつもすっかり落ちぶれて、どさ回りの浪曲師になっちまったんだな。おしゃべりなやつだ。まあ、知られたんじゃ仕方ねえ。講談が受けなくなってね。女房にせっつかれて速記本をはじめたのさ。立横文庫にはおれの名前なんぞどこにも載ってないから、誰にもわからないと思ったんだがね。おれがしゃべったのを女房の連れ子の、山田酔神という大層な名を名乗っていたが、そいつが脚色して物語を作っていたのさ」
 じいさんは昔を懐かしむように目を細めました。
 カンタローをはじめ、当時の青少年を熱狂させた立横文庫は、大阪の版元立横文明堂が明治四十四年刊行をはじめた小型の文庫本で、四六判半裁、表紙は黒のクロス装で蝶の文様が空押しされていました。
 この文庫のアイディアは、ここ旅烏一家の厄介者になっている玉田玉秀斎と山田酔神でした。玉秀斎の口演を脚色して作品にするという方法は、速記講談に飽きていた人々に受けて、爆発的な人気を博したのです。
「玉秀斎さんが立横文庫を書いていたと聞いて、どうしても頼みたくなったんですがね」 
 カンタローはにこっと笑ってじいさんを見ました。
「どんな頼みか知らねえが、昔の話だぜ。今は旅烏親分に世話になる老いぼれ講談師だからな」
 実はとカンタローがじいさんに話したのは、例の烏の森の一件です。
「総裁カラスと灰色カラスに追われた仲間たちは、故郷である烏の森に帰ることもできないでいるのです。聞く所によると、最近は烏の森に住人が増えているというじゃあありませんか。誰も表立ってやつらを批判しなくなったので、総裁たちは安心して嘘八百を並べて人集めをしているようです。住民税の免除から、研修旅行の旅費まで出すと言って集めているんです。これが悔しくて、なんとか一泡吹かせてやりたいと思っているのです。玉秀斎さん、この物語を立横文庫にしてもらえませんか」
 烏の森の物語を講談にして語って歩いてくれないかとも頼みました。
「なるほど、その総裁と灰色というのはとんでもねえカラスだ。ろくな死に方はしねえだろうよ。だがな、この話の筋は講談向きじゃあねえよ。講談にしていいのは、話が単純で勧善懲悪、水戸黄門みたいに最後は悪が滅びてめでたしめでたしでなきゃあいけねえ。烏の森の物語は、話がドロドロしていて最後は悪が栄えるという、庶民には受けねえな。純文学向きだな。大江変三郎先生にでも頼んだ方がいいんじゃねえか」
 なかなかじいさんの答えはシビアです。カンタローはしゅんとなってしまいました。



Posted by 南宜堂 at 18:59│Comments(0)
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