2010年08月22日

風雲烏城 16

 幸村、佐助、甚八と三人揃って馬にうち跨がり上田の城下に帰る道すがら、佐助は甚八に話しかけた。
「なあ甚八、おぬしの女装は実にみごとじゃが、声だけは変えられんようじゃのう」
 甚八はこの時はもう、もとの男に戻り、見事な若武者振りで馬に跨がっていた。
「何を申すか。男の声ではすぐに化けの皮がはがれるではないか。そこのところも千代様に仕込まれたわい」
 そういう甚八の声はいつの間にか若い娘の声に変わっているではないか。これにはさすがの佐助も目をぱちくりさせるばかりであった。
「いや恐れ入った。わしもまた若いおなごと話しているようで、変な気分になるのう。ところで」
 幸村は二人の話を引き取ると、話題を変えた。
「四阿山の山伏の話じゃが」
 帰り際に千代はこんなことを言っていたのだ。
「さて若殿、巫女は山伏がいないと口寄せができません。禰津の歩き巫女も、旅は必ず山伏と一緒です。四阿山の修験者で一人腕の立つものがおります。無口な男ですが信用のできる男です。このものを明日にでも城に差し向けますのでお目通りいただければと存じます」
「それは願ってもないことじゃ。わが真田家は四阿山の修験とは昔から浅からぬ因縁があるといわれているからのう」
 実際に、修験の道場のある山家神社は真田氏の氏神でもあるのだ。
 真田一族の本貫の地である真田の里からは美しい四阿山や根子岳を望むことができるが、四阿山は古来より白山系の修験の山としてその名が知られていた。真田一族の氏神である山家神社はかつては白山権現をまつる宮であり、その奥社は四阿山の山頂付近にある。
 四阿山に集う山伏たちは全国を回り、さまざまな情報を真田の里にもたらした。後に真田氏が全国にその名を知られるようになるのは、積極的に彼らの情報網を利用し、全国の諸大名に働きかけをしたからではないかともいわれている。情報好きの武田信玄がそんな真田氏に目をつけ、重く用いたということもあったのではないか。
 ここにいる幸村は、南北朝期の英雄楠木正成との共通性がよくいわれる。例えば、劇作家山崎正和は著書「室町記」の中でこんな風に書いている。
 「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ」ではじまる文部省唱歌にも歌われているように、後醍醐天皇への忠義のために死を覚悟して息子と別れる悲劇的な英雄である正成だが、一方で「その反面、正成のイメージには、どことなく明るい弾みがそなわっていることも事実である。講釈の聴衆が胸躍らせて正成の話を聞きに集まるのは、やはりあの奇策百出の千早城の戦いがあるからだろう。正成の人気はこの点で真田幸村に通ずるものがあり、のちの講談に活躍する怪盗や忍術使いにも共通するものがあるといえる。」(「室町記」)
 楠正成の出自については、その本拠地が修験・山伏の発祥地河内国金剛山の麓であること、またそのゲリラ戦を得意とする戦い方から、葛城山系の山伏・山民となんらかの関わりがあるのではないかと兵藤裕己氏は「太平記 よみの可能性」の中で述べている。
 楠正成の千早城の戦いに比べられるのは、幸村の父真田昌幸の神川での徳川秀忠との戦いや幸村の大坂での戦いである。そのゲリラ戦さながらの神出鬼没の戦いぶりが真田十勇士や忍者の活躍の物語を生んだのであろう。
 そんな真田一族の戦法はいったいどこから生まれてきたのか。それは四阿山に集まった修験者や山伏からではなかったのかと思われるのである。
 さらに、山野を跋渉し修行に励んだ修験者たちのなかから真田に臣従する者たちもあらわれてきたのであろう。彼らはそれほど身分の高いものではなかったが、真田のゲリラ戦の実戦部隊として大いに活躍したのではないだろうか。



Posted by 南宜堂 at 12:31│Comments(0)
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