2010年09月10日

保科の里

 この記事は「善光寺へ行こう」コメントの続きです。
 会津藩主となった保科正之は、徳川秀忠とお静の方との間に生まれた子で、高遠藩主保科正光の養子となって、高遠藩を継いだわけですが、この保科氏のルーツは北信濃でした。
 現在は長野市となっていますが、かつての上高井郡保科村がその地であるといわれています。北信濃保科の荘の豪族であった保科氏がなぜ南信濃高遠に移ったのか。おそらく戦国の混乱の中で諏訪氏を頼ってのことだったのではないかといわれています。その諏訪氏も滅亡し、保科氏は甲斐の武田信玄の傘下となります。
 武田信玄の没後、高遠城を守っていたのは五男の仁科盛信(「信濃の国」では信盛)でしたが、織田軍に攻められ高遠城は落城してしまいます。このとき盛信とともに戦った保科正直は城を脱出して落ち延びます。その後保科正直は徳川家康の麾下につき、関ヶ原以後は保科氏は高遠藩2万五千石の城主となりました。 
 会津に移った保科氏は姓を松平に改めます。ここに由緒ある保科氏は途絶えてしまうかと思われましたが、正光の実弟である正貞が幕臣に取り立てられ、やがて上総飯野藩主となり、これが明治維新まで続くのです。
 最後の会津藩主となった松平容保の義姉照姫はこの飯野藩主保科正丕の娘です。先刻ご承知のこととは思いますが、長野市保科が保科氏のルーツであること、実はこの地に私は何年か住んだことがあります。菅平への上り口、山間の静かな集落です。



Posted by 南宜堂 at 23:03│Comments(2)

この記事へのコメント

保科正之の移封の際は、いわゆる優秀な人材をみんな連れて行って
しまう、ということで高遠の行く末が本気で案じられていたようですね。
その関係でずっと疑問に思っていたことがあるのですが、高遠からは
家臣だけでなく、多くのお寺も移りましたよね。
今でも建福寺や善龍寺など会津若松の観光拠点になっていますが
高遠ではなくなってしまった、ということなのでしょうか?
位牌やお墓はどうなってしまったのでしょう・・・?
Posted by 照桂院 at 2010年09月11日 01:09
照桂院さま
高遠についてあまり詳しくなくてもうしわけありません。建福禅寺というのは高遠にあります。関係あるかはわかりません。寺を支えている檀那が移れば寺も移らざるをえないでしょうね。
保科氏の後は鳥居氏、その後しばらく天領の時代があって、元禄4年に高遠に入り幕末まで続いたのは内藤氏でした。内藤新宿のいわれとなった内藤です。
幕末から明治にかけて、高遠藩は優秀な人材を輩出しました。伊沢修二、中村不折などです。藩校進徳館の教育のたまものではないかといわれています。明治維新後、長野県の南半分は筑摩県となるのですが、ここの役人も高遠藩の人材が登用され、いわゆる教育県の礎を築きました。
私は信州教育を作り上げたのは、県令である薩摩藩士永山盛輝と高遠・松本の藩士たちではなかったかと思っています。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2010年09月11日 09:39
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