2010年09月18日

千葉卓三郎


「仙台藩士幕末世界一周」として玉蟲左太夫の「航米日録」を現代語訳されたのは、佐太夫の玄孫に当たる山本三郎氏である。
 山本氏はその解説の中で、「左太夫が目指した日本という国家のあるべき姿を弟子であった千葉卓三郎が師である左太夫に代わって国民に示したのである。」と書かれている。ここに登場する左太夫の弟子の千葉卓三郎とは何者であるのか。
 色川大吉氏の「明治の文化」によると、千葉卓三郎は嘉永6年仙台藩領栗原郡伊豆野に郷士千葉宅之丞の庶子として生まれている。十二歳の時に仙台藩校養賢堂に入り大槻盤渓の教えを受けた。盤渓は有名な蘭学者大槻玄沢の子で、自らも開国論を主張し蘭学や儒学にも明るかった。この時は養賢堂の副学頭であった。
 左太夫もこの時は養賢堂で教鞭を執っており、指南統取という地位にいた。山本氏はこの頃卓三郎が左太夫から西洋の文物や政治のしくみについて学ぶことが多かったのではないかとされている。
 やがて戊辰戦争が勃発し、17歳の卓三郎も従軍。白河口の戦いに参加するが敗走する。仙台藩は敗れ、賊軍として明治の時代を生きることになる。卓三郎は故郷に帰るが、藩は取りつぶし同然の状態にあり、居場所はなかった。
 卓三郎は松島、気仙沼と藩内各地を転々とし医術を学んだり国学の師に教えを受けたりしている。やがて卓三郎はそのころ東北各地に勢力を広げていたギリシア正教に出会い、上京してニコライ神父の神学校に入る。ここで思い出すのは、以前に紹介した天田愚庵のことである。愚庵は平藩士であったが、敗戦後はやはり上京してニコライの神学校に入っている。
 このことは決して偶然ではない。戊辰戦争に敗れた東北各地の武士たちは生活が困窮し、開拓に従事したり職を求めて上京したりと苦難の道をたどったのである。ニコライの神学校には寄宿舎があり、3ヶ月は寄宿舎で寝食を与えられたのである。
東北各藩の藩士たちは同じような境遇のもと、朝敵としての明治を生きなければならなかった。朝敵となったのは会津だけでほなかったのだ。



Posted by 南宜堂 at 06:56│Comments(1)

この記事へのコメント

南宜堂さんの朝敵は会津藩のみではなかった、の指摘に思うことがあります。
私は秋田県の出身です。戊辰戦争の時には当初列藩に加わりましたが、直ぐに脱落、列藩同盟敗戦の原因を作ったという指摘もあります。
ある意味では裏切りの代表者です。
秋田県人の私からすると「明治維新での東北での立役者」という気持ちがどこかにあったのは事実です。
秋田県の北部にある二ツ井町に徯后阪(きみまちざか)という公園があります。明治天皇が東北行幸最初の地が秋田で、「皇后陛下の手紙を待っている」ということで、この公園の名前にしたということです。
ロマンチックでこのことだけでも、誇りに思えたものでした。
時代が下り、私は秋田を離れ、転勤で東北各地を巡ることになります。
朝敵としては秋田県以外全部そうなのですが、盛岡(南部藩)で暮らしたときに、その反骨精神に感じるものがありました。平民宰相原敬が東京に出ることになったきっかけが、朝敵の汚名を晴らそうという決意だったからです。
原は平民ではありません。叙勲を拒否したことからそう呼ばれたのですが、叙勲は誰から受けるものかを考えると、その反骨精神は筋金入りです。
岩手山を戴く雄大な風土と反骨精神の源流である朝敵の汚名、それが岩手から総理大臣を多数(5人:東条英機も入れてです)輩出した背景がそこにあるのだと考えるようになりました。一方で盛岡市内に秋田県の土地の名前が付いた町があります。
大館町と仙北町です。この町名は町名の出身者が移住してきたところだというのです。戊辰戦争で敵方として戦った住民が移住してきて、それを受け入れる。このことに関しても不思議な風土を持っているものだと思うのでした。
その町の位置は、盛岡中心部から川を挟んで「向こう側」というのではありましたが、、、。
今回は、半端でない南部人の礼賛の投稿です。

以下、どうでも良いことです。
(小沢一郎は評判が良くありませんが、もしかしたら6人目だったかも。
ちなみに、総理数の出身地の1位は山口県(長州)の8人、次いで岩手の5人です。東条は生まれが東京で出身は東京となっていますが、岩手では岩手出身と言っています。だから5人で2位です。そうでなければ2位は東京です。戊辰戦争の対峙した同士が上になっている。ちなみに岩手以外の県は0です。)
Posted by 乳井昭道 at 2010年09月24日 07:58
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