2007年03月10日

○○検定風に

 次の4人の人物の中で、明治4年長野に石油会社をつくったのは誰でしょう。
1.近藤勇   2.石坂周造   3.土方歳三   4.清河八郎
 最近はやりの○○検定ですが、学校のテストやテレビのクイズ番組の影響でしょうか、こんな四者択一の問題が多いようです。こんな知識をためしてもまあ何の役に立つのかと、年寄りのひがみです。
 さて答えですが当然の事ながら石坂周造です。ほかの3人は明治4年にはこの世にいませんでした。ここからが信州誤試定です。この4人実は一緒に信州を旅したことがあります。ほかにも沖田総司とか芹沢鴨とか、かつての東映時代劇であったら市川歌右衛門か片岡千恵蔵が演じてもいいような錚々たるメンバーです。私が旅篭の主人か茶店の親父だったら色紙に一筆書いてもらって壁にでも貼っておくところですが、残念ながら信州を旅した時みな無名でした。
 一緒に旅したといっても京都に上る途中に通過しただけなのですが、文久3年のことでした。
 その前年、幕府は尽忠報国の士を募るとの触れを出しました。これに応じたのが近藤勇、土方歳三、沖田総司といった後に新選組を結成する面々でありました。この浪士募集の黒幕となったのが清河八郎という荘内藩の郷士で、石坂周造は清河のもっとも信頼を寄せる同志でした。石坂は清河の意を受けて関東から甲州を歩き、熱心に浪士組への参加を説いて歩いたといいます。子母沢寛の「新選組始末記」には、石坂は「肝っ玉の太い機略のすぐれた人物」であったと描写されております。
 この浪士募集のアイデアは清河八郎が出したものだといいます。それに乗った幕府も思惑があったのでしょう。そしてそれに応じた近藤勇に代表される浪士たちにも応募の事情がありました。
 清河や石坂は尊皇攘夷論者でした。浪士を集めて京に上り、尊皇倒幕の行動を起こそうとしていたようです。一方の幕府は、清河に危険性を感じながらも、彼を利用して不穏な動きをしそうな浪士たちをひとまず京に追い払いたいというねらいを持っていました。近藤勇らは仕官して侍になるという夢を抱いておりました。
 それぞれがそんな思いを秘めながら、中山道を京に向かっていたのです。かれらの事跡にについては信州のどこの宿場にも残っておりません。土方歳三が旅の途中ヘタな俳句をいくつかひねったようですが、興味のある方は句集を調べてみてください。
 京に上った清河、石坂らは、浪士たちを集め尊皇攘夷のために決起することを迫りました。これに対し異を唱えたのは近藤勇や水戸の浪士芹沢鴨のグループです。結局浪士組は近藤や芹沢を京に残し江戸にもどることになりました。清河にしてみれば、京に上って自分たちの思いを朝廷に伝えたことで、目的のひとつが達成されたと思ったのでしょう。
 その後清河は見廻組の佐々木只三郎に暗殺され、石坂は逃亡中上総の国佐原で捕らえられ、明治維新は獄中で迎えたのです。
 石坂周造と石油の話は明日にまた



Posted by 南宜堂 at 23:23│Comments(0)

 
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