2007年12月07日

坂井衡平の善光寺創建論

 坂井衡平の『善光寺史』は現在でも善光寺研究の定本ともいうべき大著です。坂井は明治十九年伊那の生まれ。東京帝国大学国文学科を首席で卒業した英才でしたが、東大の助手時代に教授に疎まれ、学界に自らの席を占めることができませんでした。
 定職もないまま食うや食わずの学究生活を送っていた坂井に、長野市教育会が企画していた善光寺史の仕事を紹介したのは会長の林八十司でした。以来坂井の亡くなる昭和十一年まで研究は続けられました。長野市教育会から支給される月額三十円という金額で、坂井は生活し研究を続けたのです。当時の三十円といえば、小学校教員の初任給の半額であったといいますから、いかに薄給であったかということがわかります。しかし、長野市教育会とてどこからも援助があるわけでもなく、会員の会費だけでまかなっていたということであれば仕方なかったのかもしれません。
 結局「善光寺史」は未完のまま出版されることなく信濃教育会の教育参考室に保管されていたのですが、昭和四十四年東京美術より二巻本として刊行されました。なぜ刊行できなかったのか、研究があまりにも実証的であったため善光寺に遠慮してとか、販売が見込めなかったからとかいろいろいわれていますが、坂井は最後まで不運な研究者であったようです。
 坂井は全国各地の善光寺を訪ね歩き、実に丹念に調査研究をすすめ、実証的に善光寺の研究を行ったのです。その坂井の説によりますと、善光寺の創建は二段階に分けて考えなければいけないといいます。
 第一段階は奈良時代の初めです。この頃に善光寺如来が奈良でつくられました。そしてこの仏は都の大きな寺にまつられたのではないかと坂井は推測しています。
 第二段階はこの如来が地方の有力者の手によって信濃の国に運ばれ、それをまつるための寺が建立された時代です。この時代とはおよそ天平の末から勝宝の頃ではないかとされています。
 善光寺の建立年代、縁起とはだいぶ開きがありますが、信州における仏教の展開を考えたならば妥当な時代設定ではないかと思われます。



Posted by 南宜堂 at 19:32│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。