2007年12月15日

善光寺聖


 善光寺信仰を全国に広めたのは善光寺聖であるといわれています。聖というと高野聖が有名ですが、「高野山のほかにも善光寺・長谷寺・四天王寺・東大寺・鞍馬寺・清涼寺などにも聖がおってそれぞれの寺の勧進に従事していた。」(五来重「高野聖」)
 これらの聖はそれぞれの寺院に専属というわけではなく、互いに交流していたというのですから、善光寺聖がある時は高野聖になり、また四天王寺の聖になったりしたようです。
 聖の語源については、「日知り(ひしり)」だというのが一般的です。すなわち、太陽の運行を知るもの、原始宗教の司祭のような存在を日知りといっていたのではないかというのです。
 一方で五来重は、先に引用した「高野聖」の中で「火を管理する(治る=治ろしめる)という意味で「火治り(ひしり)」といってもよいと考えている。」と述べています。原始時代、火は貴重であり、火には呪力が宿ると信じられていましたから、火を管理し制御する人は一族の人々から何か途方もない力を備えた人であると信じられていたのです。
 「日知り」にしても「火治り」にしても、それは一般の人に比して超越した力を持つ人のことです。ですから、聖たちが自らをそのように名乗ったというより、人々から畏敬の念を込めてひじりと呼ばれるようになり、それが一般的な言葉として定着していったと考えればいいのではないでしょうか。
 改めて善光寺聖の発生について考えてみます。聖とはどんな人たちをさすのか、五来は聖を次のように定義しています。
・山林に隠遁し修行を行う隠遁性と苦行性
・霊魂の永遠の旅を生前に行う遊行性
・激しい修行によって得られた呪術性
・平素は妻帯し生産に従事するので世俗性
・群れをつくって活動する集団性
・集団により寺や仏像をつくるための勧進性
・勧進の手段として説経や祭文、絵解き、踊り念仏、念仏狂言を行う唱導性
 さすがに聖の研究の第一人者、聖のもつ特徴を余すところ無く網羅していますが、それではこれを全部備えていなければ聖ではないのかというと、それはそういうことではないでしょう。時代を経ることにより聖も変質していきますし、集団によりいくつかの条件が脱落していたりします。
 このへんからは私の推測になってしまうのですが、この定義には歴史性というベクトルが必要なのではないかと思うのです。つまり、聖の発生から成熟そして堕落(?)にいたるプロセスというのが入るとわかりやすくなるのではということです。
 聖というのはおそらく
・山林に隠遁し修行を行う隠遁性と苦行性
・激しい修行によって得られた呪術性
を備えた修行者の中から生まれてきたのではないかと思われます。
 それがやがて特定の寺院と結びつき
・集団により寺や仏像をつくるための勧進性
となり、さらには勧進を成功させるための工夫として
・勧進の手段として説経や祭文、絵解き、踊り念仏、念仏狂言を行う唱導性
を身につけ、この中から芸能のプロとなっていく人たちも現れたのではないでしょうか。
 善光寺聖も、私の想像では善光寺の修行僧の中から出て、修行の一環として勧進を行うようになり、やがて彼らは高野聖、四天王寺聖たちと交流し、説経や絵解きの技を身につけていったのではないかと思うのです。
 こうしてみてくると、聖というのは原始的な宗教者の形態を継承しているようです。善光寺もどちらかというと原始宗教的な色合いを濃く残している寺です。そんな善光寺に多くの聖が訪れるようになり、聖たちのネットワークの基地となっていったというのもうなづける気がします。



Posted by 南宜堂 at 00:07│Comments(0)

 
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