2008年01月04日

稼ぐが勝ちか?

 言わずと知れた、ひと頃話題の人であったホリエモンの著書「稼ぐが勝ち」のことです。日本には昔から「負けるが勝ち」という奥ゆかしいことわざがあったわけですが、ホリエモンの著書のタイトルは、これからのパクリであることはいうまでもありません。読んではいませんが、内容はだいたい察しがつきます。
 露骨に「稼ぐが勝ち」といわれると、大方の日本人は眉をひそめるわけですが、ホリエモンにとってはそれは想定内のこと、そんなタブーに挑戦している自分を誇示したかったのかもしれません。タブーのように取られていますが、現代の日本に置いては、口にこそは出さないものの、ホリエモン流の処世は多くの人が肯定していることですので、別に挑戦を気取るほどの抵抗はなかったと思います。それよりも、「稼ぐが勝ち」の時流に乗れず、あるいはそういう生き方を潔しとせず、あえて負け組に甘んじていることの方が勇気のいることのような気がいたします。
 戊辰戦争のおり、五稜郭に立てこもって最後まで抵抗を試みて投降した榎本武揚は、明治政府のもとで高官として優遇されましたが、そんな榎本の処世を福澤諭吉は「やせ我慢の記」を書いて批判しました。
 ここまで書いてきて思い出したのが「善光寺史」を書いた坂井衡平のことです。坂井のことは前にも書いたので、繰り返しになる部分もありますがご勘弁ください。坂井は明治十九年伊那の生まれ。東京帝国大学国文学科を首席で卒業した英才でしたが、東大の助手時代に教授に疎まれ、学界に自らの席を占めることができませんでした。
 象牙の塔に守られてぬくぬくと研究生活を続ける同輩たちに比べて、定職もないまま食うや食わずの学究生活を送っていた坂井に、長野市教育会が企画していた善光寺史の仕事を紹介したのは会長の林八十司でした。以来坂井の亡くなる昭和十一年まで研究は続けられました。長野市教育会から支給される月額三十円という金額で、坂井は生活し研究を続けたのです。当時の三十円といえば、小学校教員の初任給の半額であったといいますから、いかに薄給であったかということがわかります。しかし、長野市教育会とてどこからも援助があるわけでもなく、会員の会費だけでまかなっていたということであれば仕方なかったのかもしれません。
 結局「善光寺史」は未完のまま出版されることなく信濃教育会の教育参考室に保管されていたのですが、昭和四十四年東京美術より二巻本として刊行されました。坂井の専門の国文学の分野から見れば、善光寺の研究はは異質であり、坂井としては不本意だったのかも知れません。しかし、善光寺の史的な研究にとっては「善光寺史」は不朽の名著であり、後の多くの研究は必ず彼の成果を踏まえています。



Posted by 南宜堂 at 22:01│Comments(0)

 
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