2011年03月22日

願人坊主

大道芸とか門付け芸とかよばれるものは、たいがいがもう滅びてしまったようである。私が子どもの頃にはかろうじて獅子舞が残っていた。今獅子舞は祭礼の日に神社の境内で行われる神楽の中に残っているだけだ。
都築道夫の時代小説に「なめくじ長屋捕物騒ぎ」という連作の短編集があるが、ここに登場するのが江戸は神田橋本町のスラムなめくじ長屋に住む大道芸人や門付け芸人たちである。彼らはみな浅草非人頭車善七の配下であると説明されている。
「黄金の羊毛亭」というミステリーを紹介するホームページから引用して彼らの紹介をさせていただくと、「大道曲芸師のマメゾー、全身に鍋墨を塗りたくって河童に扮するカッパ、張りぼての墓石を抱えた“大仕掛けの幽霊”ことユータ、猿田彦の面をかぶり牛頭天王の札をまくテンノー、願人坊主のガンニン、鍋墨を塗った体で熊をまねて四つんばいで歩くアラクマ、麦わら細工のかつらに酒ごもの衣装で一人芝居を演じるオヤマなど」である。
芸とまでいかないものもあるが、江戸時代にはこのほかにも多くの芸人たちが町を舞台に生計を立てていたのである。
遡って近世の初期のころには信州善光寺の境内には説経師や熊野比丘尼、傀儡師といったものたちが芸を見せていたのだという。また、同じ信州の禰津には歩き巫女の村があり、各地をまわって門付けをして歩いた。

兵藤裕己氏は「チョボクレとカッポレは、願人坊主の代表的な門付け芸だが、なかでもチョボクレは、近代の浪花節の直接の母胎となった芸である。」(「声の国民国家・日本」)と述べ、願人坊主が語ったチョボクレが浪花節の原型であるとしている。
なめくじ長屋にも登場する願人坊主だが、辞書によると「江戸時代、門付けをしたり、大道芸能を演じたり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離などをしたりした乞食僧。」(デジタル大辞泉」)であり、その元は勧進聖や乞食法師であったという。
錫杖を振りながら「チョボクレ、チョボクレ、チョンガレ、チョンガレ」と唄いながら銭を乞うのが願人坊主の門付け芸で、それが次第に芝居や講談のネタを取り入れ、物語性を帯びるようになって浪花節へと変貌していったのだという。
チョボクレとかチョンガレとかいっても実際にどんなものであったのか、活字だけで想像することは難しいのだが、それがどのようにして「清水次郎長」や「国定忠治」の浪曲になったのか、これまた想像が難しい話である。



Posted by 南宜堂 at 04:49│Comments(0)
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