2008年01月13日

いのちの初夜

 北條民雄という作家を御存知でしょうか。
 「いのちの初夜」という短編小説の作者で、この小説だけで有名になった人です。それもそのはずで、24歳という若さでこの世を去りました。若い時に読んだ小説で、内容はうろ覚えなのですが、ハンセン病を発症した若者の苦悩を描いたもので、ハンセン病(らい病)について知ったことの衝撃だけが記憶に残っています。この小説を読んだ当時は、まだハンセン病はこわい病気であると信じられていて、感染性が強いので患者は山奥や離島の療養所に隔離されたのです。
 松本清張の「砂の器」もハンセン病の父親をもった主人公の宿命というものがおおきなテーマになっていました。最近テレビドラマとなった時は、父親がハンセン病という設定ではなかったようです。
 幼い息子を連れて故郷を離れ、放浪してあるく父親(加藤嘉が演じていました)の心象とは逆に美しい四季の映像が映され、テーマ音楽がバックに流れていました。

 らい病は古くから知られた病気で、中世の絵巻物などにもその姿は描かれています。当時かららい病にかかると身近な人たちからは隔離され、故郷を離れ流浪の旅に出るか、非人宿に引き取られるしか生きる術はありませんでした。「らい者が出ると本人と親類との合意のもと、相当の志(謝礼)を添えて非人長吏に引き取られ、大寺社荘園領主の支配圏にある非人宿での日常生活に入った。らいは、現実の病気としては遂に癒えることなき病であったし、しかもその不治の病を抱えこんだまま、らい者たちは非人宿で終焉の時を待たねばならなかった。ありえたのは、そして確かに彼等に保証されたのは、心における、仏による救済である。」(横井清「中世の民衆と芸能」より)
 「一遍聖絵」には路傍で物乞いする顔に布を巻き付けたらい者の姿が描かれています。彼等は生活の術として路傍で物乞いをしていたのですが、それは非人長吏から強制されたものでもありました。
 善光寺の門前にも多くのらい者がいました。まだ迷信が幅をきかせていた中世、らいは前世での報いであるということが信じられていたようです。業病に苦しむ身に、それが前世の報いであるとされたのです。何としても来世は救われたい、極楽浄土に往生したいとの願いから善光寺にやってきたものでしょう。善光寺はこの世の浄土、善光寺が彼等に対しどのように接したかはわかりませんが、そこで生活を営めるだけの施しがあったのかもしれません。門前町にはらい者が身を寄せ合って住んでいた集落があったということです。
 らいに限らず、病におかされた人々や身体に障害をおった人々もやはり善光寺の門前には多くいました。「大塔物語」にある「日本の津」という表現は、そんな人々も多く善光寺に集まってきたことをいっているのです。

参考
戦前から戦後にかけて、ハンセン病を発症したというだけで、患者は社会で生活することを許されず、官民一体となってすすめられた「無らい県運動」等によって、町や村から徹底的に排除され、国立療養所に強制隔離されました。
戦後は特効薬プロミンにより、ハンセン病は治癒するようになりましたが、患者の強制隔離絶滅政策を基本とした「らい予防法」は、1996年まで存続したた めに、病は癒えても社会復帰は容易ではありませんでした。

2001年5月のハンセン病国賠訴訟の熊本判決は、国のこの政策を断罪し、その後の制度改革によりハンセン病政策は大きく前進しました。しかし、ハンセン病療養所では、長年の隔離によって高齢化が進み、社会の根強い差別感情もあって依然社会復帰は容易ではありません。「らい予防法」廃止時全国5千人と言われた入所者の数は現在3千人を切り、10年後には1千人以下になると予測されるようになりました。それにもかかわらず、国は、ハンセン病療養所の将来についての具体策を何ら示すことなく、ただ入所者の動向を傍観しているのみで自然消滅を待つという姿勢です。

平均年齢が78歳を超えたいま、入所者は、この先、療養所でどういう暮らしができるのか、どういう医療体制が確保されるのか、将来像が見えないまま、不安な思いを募らせています。ある入所者は、「国は最後の一人まで面倒を見ると言うけれど、最後の一人にはなりたくない。その前に死にたい。」とその思いを語っています。

私たちは、長年強制隔離政策に苦しめられてきた入所者が、その晩年を、社会から切り離されることなく、たとえ「最後の一人」になるときが来るとしても、社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療が保障され、安心して暮らすことができることを願っています。

ハンセン病療養所の将来のあり方を問う問題は、ひとり入所者のみが取り組んで解決する問題ではありません。立法府、行政府はもとより、地方行政機関及び市民の皆様にも問われている重大な課題でもあります。

私たち、ハンセン病療養所入所者協議会(略称・全療協)は、ハンセン病問題の全面解決のために、多くの市民の皆様のご理解とご支援を得ながら、組織として最後の人生をかけた運動に立ちあがる決意をいたしました。
(ハンセン病国賠弁護団ホームページより)



Posted by 南宜堂 at 20:32│Comments(2)

この記事へのコメント

 懐かしい作品だなー!高校2年の時に世界史の先生から進められて
文庫版で読みました。
それまでこの病気のことを知らなくて、映画「ベンハー」の中で家族がかかっていたシーンの意味が理解できました。
 文中で新生児を巡って、患者の方々のセリフがとてもいたたまれなくて、泣いた記憶があります。
たびたび大学生に勧めていましたが・・・反応は・・・いまいちでした・・・残念・・・ハハハ・・・
Posted by ダッタ at 2008年01月21日 22:07
ダッタさま
コメントありがとうございます。いまハンセン病のことが人々の記憶から失われていっています。若い人が興味を示さないのは無理はないかもしれません。しかし、差別と偏見の歴史はまだ未解決だと思います。
ダッタさんのブログ拝見しました。松本生まれなものですから三九郎は懐かしい行事です。スケッチも素晴らしい。時々よらせていただきます。
Posted by 南宜堂 at 2008年01月22日 00:02

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。