2008年01月17日

秘仏善光寺如来

 ご存じのように善光寺の本尊である善光寺如来は秘仏です。しばしば行われる御開帳(現在では六年に一度行われている)の時でさえ拝観できるのは、前立本尊といわれるレプリカです。
 善光寺如来はいつ頃からどんな理由で秘仏になったのか、これもはっきりはわかりません。坂井衡平は仏像が秘仏になるための要因について次のようにまとめています。
一、本尊荘厳のため
一、本尊保存上のため
一、本尊拙作、毀損のため
一、歴史的事情のため
一、盗害保護のため
 善光寺如来がどれにあてはまるのか興味深いところですが、坂井は続けて善光寺如来が秘仏とはいうけれど、それは絶対的なものではないとも指摘しています。伝説によれば白雉五年勅命により秘仏となったとありますが、「開見の例は絶無では無く寧ろ屡々あったのである。頼朝当時から七百年間に十数回の例が見えるから、平均すると六七十年間に一回位宛行われた事になる。故に歴史的には之を絶対的の勅封秘仏と云うは当たらないのである。」と述べています。
 ミステリー「赤い馬」では、「本尊拙作、毀損のため」秘仏になったのではないかと指摘しています。確かに善光寺は度重なる火災に見舞われており、本尊が火事により毀損するということは考えられることです。
 善光寺如来は旅する仏であると前に述べました。聖たちの笈に入り全国津々浦々を旅して歩く仏であるのです。そんな仏がいつも長野の善光寺に鎮座していたらまずいのではないか。ここはひとつ前立本尊に代理をつとめていただきご本尊はいつも旅をしていて見ることができないのだということにしておこう。そんな理由で秘仏になったというのは無理でしょうか。
 坂井衡平によれば、善光寺如来は奈良時代のはじめに都でつくられ、しばらく都の寺にまつられた後、天平時代に長野に請来されたということです。坂井衡平という人は非常に実証的な人で、それは全国の善光寺を訪ね歩いたという一事からも知ることができますが、善光寺の創建についても実証的な態度でのぞんでいます。
 すなわち、善光寺如来は形式からいっても天竺でつくられたものではなく、内地仏であること、また仏教伝来時の仏が善光寺如来ではあり得ないこと等々を述べた後、善光寺の開基者は水内郡の豪族か郡司ではないか、また助力者として国司、国分寺の僧、奈良の官人や大寺の僧が考えられること、したがって「想うに此如来奈良の初に出でて久しく都の大寺などに祀られたるを、郡司、国司の上京の機縁ありて請け下し本願と共に伽藍建立ありしなり。」という風に推測しています。これによれば、時代こそ異なりまた細部においては異同があるものの、「善光寺縁起」にある如来は善光に背負われて都から水内の里に運ばれたという部分とも呼応するということなのでしょう。
 実証的な研究態度というのは、推論や想像が多い善光寺創建論の中にあって、個人的には誠に好ましいものに思えますが、そのもととしたもの、例えば仏教の伝来に関する「日本書紀」の記述ですとか、善光寺如来の形態についての前提が間違っていれば、そこから導き出される結論もまた真実からは離れてしまうということも否定できないのです。善光寺如来の形態について、誰も見たことがない以上は推測でしかありません。



Posted by 南宜堂 at 08:43│Comments(0)

 
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