2011年04月20日

山川健次郎の戊辰戦争

戊辰戦争を戦った少年たちといえば、なんと言っても会津の白虎隊が有名だが、戦ったのは彼らだけではなかった。天田愚庵もまた15歳で平藩士として戦闘に加わったのである。
その愚庵と、明治維新後の東京神田のロシア正教の教会で出会うことになる千葉卓三郎は、16歳で仙台藩士として白河口の戦いに参戦している。
自刃することはなかったが、後に東京帝国大学の学長となる山川健次郎は白虎隊士として籠城戦に加わっている。14歳であった。
この3人はいずれも14、5歳で戦いの場に出、敗戦を経験するわけであるが、その後の人生はそれぞれに全く異なったものであった。
山川については私はよくは知らない。鶴ヶ城開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走する。長州藩士奥平謙輔の書生となった後、明治4年に国費留学生としてアメリカに渡り物理学の学位を取得したという説明がウィキペディアにあるから、非常に優秀な少年であったのだろう。その後は東京帝国大学の教授となり、明治34年には学長となっている。専門は物理学であった。
また、「会津戊辰戦史」の著者でもある。当然のことながらこの本は戊辰戦争を会津の側から描いたものである。ウィキペディアでは山川らしさのエピソードとして次のことを伝えている。

会津藩に対する忠誠心は壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛け、人事担当者を困惑させたという。
物理学に精通したという立場からか極めて現実主義者であり、妹の山川捨松等留学生の多くが洗礼を受けた中最後までキリスト教に対しては懐疑的であったと言われる。大正時代の千里眼事件で一番早くに疑念を唱えたのも山川健次郎であった。
「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていることが多い。実際にカレーライスを食した日本人一号が誰だったかはともかく、1871年に国費留学生としてアメリカに向かう船中でカレーライスを食べたという記述を回想録に書き残している。しかし、カレーライスを選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレールーはすべて残したという。

この書き方は山川の愛国心を強調したもので、多少は悪意に満ちた面もあろうが、山川健次郎という人は国(藩政時代には会津藩、明治以後は大日本帝国)を思う気持ちの強かった人であったのだろうことがよくわかる話である。
ここで話はまたまた脱線してしまうが、ウィキペディア「山川健次郎」の項目に参考文献として「星亮一 『山川健次郎伝-白虎隊士から帝大総長へ』 平凡社」があったので一言書きたくなった。
私は寡聞にしてこの書物は読んでいない。しかし「白虎隊士から帝大総長へ」という言い方に少し引っかかるものを感ずるのである。
会津藩は降伏後下北に強制的に移住させられた。このことは会津が自ら希望してということのようだが、星氏らは強制的にということを強調する。東日本大震災の惨状をレポートした星氏の文章にも、被災地の状況をその当時の会津藩士の置かれた状況になぞらえていた。この文章はなぜかその後星氏のホームページから削除されてしまったが。
いずれにせよ、星氏はこの措置を薩長政権の会津への報復として強く非難しているのである。そんな非道なる薩長政権のもとで、帝大学長に出世したことが快挙なのだろうか。山川健次郎は優秀な少年であった。それは薩長政権の尺度によらなくとも強調できるのではないだろうか。
会津藩は薩長政権に抗して戦った。負けたからといって手のひらを返すように政権に従順になれるものなのだろうか。星氏の論理によれば「体制を批判することをバネにして体制の中で出世する」ということなのだろう。それは体制に対する本質的な批判ではなく、体制を担っている薩長閥に対する恨みでしかなかったのであろう。



Posted by 南宜堂 at 10:11│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。