2008年01月25日

一遍、善光寺に詣る

 鎌倉時代の善光寺の姿は、「一遍聖絵」が残されていてくれたおかげでほぼ正確に知ることができます。編集したのは弟子の聖戒、絵を描いたのは円伊という画家なのですが、どんな経歴の画人なのかよくわかっていません。聖戒は一遍とともに行動を共にしているのですが、一遍の死後円伊とともに師の跡を追って全国を旅しています。
 時宗の祖一遍は生涯に2度(あるいは3度とも)善光寺に詣っています。その出自は「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年己亥予州にして誕生、十歳にして悲母にをくれて、始めて無常の理をさとり給ぬ」(「一遍聖絵」詞書より)という風に聖戒は書いています。
 10歳で仏門に入った一遍は、建長3年太宰府にいる聖達のもとに弟子入りしています。今でいうなら中学一年生くらいの時に単身で九州まで修行に出かけたのです。
 聖達は、浄土宗の開祖法然の孫弟子に当たり、一遍はここで父の死まで12年間を浄土教の修行に明け暮れたのです。父の死により伊予に帰った一遍は、還俗して河野家の家督を継いだようです。
 その後、再度出家して善光寺に参籠するまで、一遍がどんな生活をしていたのかよくわかっていません。再び出家して善光寺に向かわせるような決定的な出来事があったのではないかと研究者は指摘しています。河野氏といえば、没落したとはいえ、四国では有力な武士の頭領です。一遍が家督争いに巻き込まれ、人を殺傷するような事態になったのではないか、不確定な資料ながらそんな記述をしている古文書もあります。
 また、「北条九代記」という書物には、一遍が在俗の頃のエピソードとして次のように記しています。一遍には二人の妾がおりました。いずれも美人で気立てがよく、一遍も二人を平等に愛したので、二人の仲はとても睦まじかったようです。ある日二人は碁盤を枕に仲良くうたたねをしておりましたが、見るとふの二人の髪がたちまち小さな蛇に変身し、お互いに食い合っているのです。一遍はそれを見ると刀を抜き、蛇に斬りつけたといいます。一遍は自らのこの行為を悔い、「これより執心愛念嫉妬の畏るべきことを思ひ知り、輪廻の妄業因果の理を弁へ発心して比叡山に登」ったというのです。
 いずれも伝説とでもいっていいようなお話で、そんな事実があったのかどうかはわかりませんが、善光寺に向かう一遍の心の中には、俗世間の物欲や愛欲に振り回され、どうやっても救いようのないような魂が宿っていたのではないかと思われるのです。

 



Posted by 南宜堂 at 22:44│Comments(0)

 
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