2011年05月18日

勧進について

聖の大きな仕事というのが勧進なわけですが、その勧進について松岡心平さんはこんな風に述べています。

中世という時代は、「勧進」が社会的にも政治的にも、もちろん文化的にも大きな意味を日本においてもっていた時期なのです。「勧進」という要素を抜いては、なかなかその時代を考えられないだろうというくらいの大きな意味をもっていると私は思います。(「中世芸能を読む」岩波書店)

お寺をつくったり修復したりという事業を全面的に請け負い、資金の調達から完成に至るまでやってのけたわけですから、現代でいえば総合商社のようなものだと松岡さんは言っています。
ただ、勧進聖はその事業を自分たちの営利のためにしません。それは根底に信仰があるわけで事業の完成が到達点であるのです。
今回の東日本大震災では義援金がたくさん寄せられたわけですが、これは日赤なりが集めて配分するのですから、民間の中で完結している仕組みで勧進と似たところがあります。募金に応じた人たちもそれは助け合いという気持ちからで、営利を目的としていません。勧進に応じた中世の人たちも、純粋な信仰心とは言えないかもしれませんが、救われたいとか極楽に往生したいとかいう気持ちからで、営利を求めてはいません。
もっとも、日赤はこの義援金については配分するだけでそれでなんらかの事業をするわけではないというところが勧進との違いです。
中世の勧進のような民間だけで行われるいわゆる公共事業というのは現在ではみられませんが、仕組みとしては誠に明快ではないかと私などは思ってしまいます。今盛んに論議が行われている長野市の市民会館の建て替えの問題なども、勧進の方法を取り入れたらよかろうにと思います。
どうしても必要であるならそういう人たちが旗振り役(勧進聖の元締めのようなもの)となって、資金集めから完成まで請け負えばいいのです。そうして市民に訴え資金を募ればいいのです。ぜひ必要だと思う人は喜んで寄付に応じるのではないでしょうか。そうすれば民間活力によってできた公共事業として大いに話題にもなると思います。



Posted by 南宜堂 at 23:24│Comments(0)

 
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