2008年01月28日

妻戸衆

 一遍の生涯にこだわり、その足跡を追うことに時間を取りすぎたような気がいたします。きっかけは、善光寺の妻戸衆(江戸時代まではそんな一派が善光寺の宿坊にはありました。現在は天台宗に改宗しています)がこぞって時宗に改宗したということを知ってからです。
 時宗の祖一遍の生涯を描いた「一遍聖絵」に一遍の善光寺詣での場面があります。一遍の善光寺に詣でたのは文永八年(一二七一)のことです。
 その絵を見ますと、先代の長野駅舎のモデルではないかと推測した本堂と山門の間に五重塔が描かれています。仏教民俗学者の五来重によると、釈迦涅槃像を安置する釈迦堂がかつての五重塔だったのではないかと推測しています。その説に従えば、現在のものとは違って本堂は東面していたことになります。
 「一遍聖絵」に描かれている善光寺本堂の正面に向かって左側、本堂が東面していたとすれば南側にあたるのですが、本堂から張り出すようになっている場所を妻戸の間といいます。妻戸とは寝殿造り建物の四隅にある、外側に開く両開きの板戸のことで、ここから出入りしたということなのですが、善光寺の妻戸の間は、そんな造りになっていたのでそう呼ばれたのでしょうか。これに対し五来重は、善光寺本堂の屋根の切り妻の南の妻に廂を出した部分が妻堂であり、ここに出仕する僧を妻堂衆、妻戸衆と呼ぶようになったという説を唱えています。
 もうひとつ栗田勇氏の妻戸についての記述を引用しておきますと「善光寺の僧侶の組織の中に、「妻戸」あるいは「妻戸衆」と呼ばれる集団があって、これらは寺僧としては身分が低く、内陣には入れないる外陣の雑務、仏事や祭礼の音曲、戦死者の収容などを職務とする十坊が中世いらい江戸まで活躍していた。彼等は、本尊仏が百済より渡来してきたとき、つきしたがった二人の外来僧を祖とあおぐ。」
 私はこの妻戸衆こそが善光寺聖の末裔なのではないかと思っています。高野聖が、身分的には低い僧でありながら高野信仰を支えたのと同じように、妻戸衆こそが善光寺信仰を世に広めた聖たちだったのではないでしょうか。だからこそ一遍の信仰に共鳴して時宗に改宗したのではないかと思うのです。
 一遍は「捨て聖」と呼ばれています。家を捨て、故郷を捨て、家族を捨て、今いる場所、今という場所さえも捨てて一所定めぬ漂白の旅を続ける一遍をリーダーとする時衆の僧尼たち。一遍の根本思想は、すべてを捨て、自分さえも捨ててただ阿弥陀如来の本願に帰依する、無我のうちに「阿弥陀如来」の名号を唱えることこそがその実践なのだということです。そういうトランス状態の中からいわゆる「踊り念仏」というものも自然発生的に生まれてきたのです。
 ある意味ではアナーキーでラジカルな思想なのですが、すべてを捨てるということが共同体から捨てられ、漂白の旅を余儀なくさせられていたらい者、賎民、芸能者たちからの熱狂的な共感を呼んだのでしょう。



Posted by 南宜堂 at 23:50│Comments(0)

 
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